ファンタジーとノスタルジー

img370e6bf1298357「チャーリーとチョコレート工場」という映画を観に行った。主演がジョニー・デップということと、TVのCMスポットで流された映像センスがよかったので、ついついつられて映画館へと足を運んだ。くぅー、しかし、外した。幾分たがの外れたシュールな映画を期待していただけに見事に外してしまった。プロダクション・デザインや音楽は楽しめたが肝心の物語がつまらない。どうしてこれだけの制作費をこんなつまらない話につぎ込むのだろう。ファンタジー映画が親子の愛をテーマにするなんて最悪だ。誤解しないでほしい。家族愛にいちゃもんをつける気はさらさらない。しかし、最近のハリウッド映画に必ずと言っていいほど盛り込まれている、この親子の絆というテーマは、わたし個人としてはいい加減に食傷気味なんだよな。ファンタジーの世界にまで、こうもギトギトに家族主義を持ち込まれては、ファンタジーではなくなってしまうじゃないか。

 そもそもファンタジーとは妖精や魔女や異世界の話である。在りもしないと思われるそうした幻想の世界に人はなぜ心惹かれるのか。それはあり得ないがゆえに人々にとっては絶大な希望となるからだ。あり得ることは希望には結びつかない。というのも、希望はいつの時代でも絶望の反動として機能するからだ。現実から乖離していればいるほど、幻想が人を引きつける威力は増す。現実を押し進めている人間世界の法則性を超えたところに人間は夢や希望を見いだすのである。その最高峰は、宗教では神と呼ばれ、哲学では真理と呼ばれ、芸術では美と呼ばれる。誰もそれらの素性を知らない、いや、誰もそれらの正体を知り得ない、という意味で、それは現実へと変換されることが不可能なものたちである。
しかし、その不可能なものを絶対的な価値として夢見続けている人たちは、世界中にいまだに数多く存在する。こういった夢見の人々を、このブログの名にちなんでケイブ症候群と名付けよう。ケイブ症候群とは女なるものが持つ秘密の花園の中へ入りたがる者たちのその症状名である。原郷への回帰願望。。。そう考えると、ファンタジーというものは、そもそもその根底に常にノスタルジーを孕んでいるものと考えることができる。——ボクちん、おうちに帰りたい。おうちはとてもあったかくて、優しいパパとママがいる。これが人間のパパとママなら、ノスタルジーはあまりに残酷じゃないか。家のない子、親を知らない子たちには帰るところがない。家族主義は孤児の存在を振り返らない。そこがダメだ。

 事情は、ケイブ症候群の人々にとっても同じだろう。人間にはパパとママはいるのか?帰るべき原郷=ホーム・スィート・ホームはあるのか?神の国。千年王国。シャンバラ。常寂光土。何でもいい。本当にそんな故郷があるのか?もし存在しなければ、人間はすべて生まれながらの孤児だってことになる。孤児であることを認めたくない気持ちは分かる。しかし、一方では、孤児であることを豪語する者たちだっている。ここは、やはり、どちらの立場も尊重すべきだろう。

 ——よくよく考えてみると、これは子供向けの映画なのだ。なんで大人のわたしがカッカしている?。しかし、観客は満員だったが、子供の姿は数えるほどしかいなかったぞ。………問題は二重に複雑なんだな。おい、一体どうなってる、世界。世の中は子供のような大人と、大人のような子供だけになってしまったぞ。そーか。いい意味でも、悪い意味でも、もうパパも、ママも、帰る家も無くなったんだな。オレらはみんな同じ孤児だ。いや、みんな孤児なら、孤児じゃない。なっ、そうだろう?