アートではなく芸術を!!

カフェ・ネプ(ヌースアカデメイアの掲示板)に書いたコメントだったけど、もっと長く書きたくなったので、こっちに移動——日本で芸術という言葉がアートというカタカナ言葉に置き換えられ頻繁に用いられるようになったのはいつ頃からなのだろうか。1960年代のカウンターカルチャー当たりからなのか、それとも70年代の高度成長期における企業のマーケット戦略からなのか、よくは分からない。だが、個人的には芸術とアートには明確な区分をつける必要があると思っている。

 以前もブログに書いたが、芸術とは、知覚や情動といった生きる人間に固有の実存的体験、もしくは現実的経験を他者へと伝達、伝播させるための非言語的なコミュニケーションの手段と言える。たとえ文学においてもそこで表現されているのは言語の奥に秘められた非言語的な何物かである。芸術は言語として開示した世界から、再び言語を乗り越えて展開、転回していく人間の無意識の突端に息づく生あるものの顕現であり、それゆえに、芸術それ自身は自然からつねに超出し、自然なるものの始源への回帰を絶えず試みようとする存在の原型的営みである。O・ワイルドは「芸術が自然を模倣するのではなく、自然が芸術を模倣する」とまで言い切った。要は芸術は人間世界に現れた神の欲動なのだ。だからこそ、芸術は宗教や哲学をある意味軽く超えているのだ。いや、そうしたものでなければ所詮、芸術とは呼べない。

 果たして、現在、アートと呼ばれているものの現状はどうか?はっきり言って「クソばかり」と言いたい気分はある。クズのような芸術作品を指してジャンク・アートという言葉があるが、実際のところ、アートという呼称自体がジャンクと化した芸術の別称なのだ。その証拠に、小説にしろ、詩にしろ、絵画にしろ、音楽にしろ、現在メディアに送り出されているほとんどの作品がナルシシズムの中に耽溺した自我表現に終始してはいないか。自然回帰も結構。君の物語も結構。抽象も結構。退廃も結構。脱構築も結構。しかし、それは君のごくごく表層で生起している近視眼的風景にすぎない。存在はそう簡単にその本性を見せはしない。もっと潜らなくてはだめだ。自身の生の根っこを全部引き抜いて、その奥で蠢く地下水脈の巨大な流れに触れるのだ。

 芸術作品から発せられる光は黄金の輝きを持つものだ。なぜなら黄金のみが唯一、闇を経験した光を持つものだからである。自然の光は人為が及んでいないという意味において闇を知らない。芸術が自然よりも偉大な理由は、それが一度闇を経験し、その闇の中から再び、光の中へと立ち上がる術を心得ているからにほかならない。芸術が黄金的価値を持つ所作であるとすれば、アートは紙幣的価値しか持たない。つまり、それは黄金を偽装する偽金作りなのである。その意味で、アートという言葉は、もはや真の芸術を提供できなくなってしまった作家たちの自己正当化のための逃避のジャンルとも言える。似非錬金術師たちよさらば。アートではなく今こそ芸術を僕らの手に奪回しよう!!