ブラック・ダリア

Blackd 先週末、甥っ子のdieforくんを連れて久々に映画館に足を運んだ。B・デ・パルマの新作『ブラック・ダリア』を観るためだ。

デ・パルマは僕にとって思い出深い監督である。20代前半に吉祥寺に住んでいた頃、ロックミュージカル特集というオールナイト上映会があって、「ジーザス・クライスト・スーパースター」「ゴッドスペル」「ロッキーホラーショー」「ファントム・オブ・パラダイス」の4本を立て続けに観た。そのとき一番面白かったのが「ファントム・オブ・パラダイス」で、これがデ・パルマ作品との最初の出会いとなった。その後、「キャリー」「殺しのドレス」「ミッドナイト・クロス」「スカーフェイス」と立て続けに見せられた僕は一気にデ・バルマのファンとなった。個人的には80年代のハリウッドではベスト5に入っていた監督だと思っている。90年代以降、確かにデ・バルマはバッとしない。それでも、いつかはガツンとやってくれるという期待を持って、デ・バルマの作品を見続けている。ってなわけで、今回も「ブラック・ダリア」に足を運んだわけだ。

 さて、見終わった感想だが、駄作とは言わないが、やはり今三、今四だった。全盛時のデ・バルマの持ち味は何と言ってもカット編集の畳みかけの妙技だ。ヒッチコック張りのカメラアングルとカメラモーションを使って撮影された様々なシーンが、長回し、スローモーション、画面分割等の編集によってこれまたヒッチコック風のSEに合わせて絶妙に畳み掛けてくるときのあの緊迫感、これがたまらなかったのだが、今作もそのドライブ感が全くと言っていいほど感じられない。後半になってようやくデ・バルマらしさが出てくることには出てくるが、リズムがバタついていて、作品全体としての統一感がない。デ・バルマはもう終わったのかもしれない。そう感じた。

 好きな監督だっただけにいろいろなことを考えさせられた。ひょっとしてデ・バルマは何も変わっていないのかもしれない。変わったのはむしろ僕の方で、あまりにデジタルのスピード感に慣れてしまったために、デ・パルマのような編集技法が無意識のうちにカビ臭く感じるようになっているだけの話なのかもしれない。映画はもろテクノロジーが反映されるジャンルである。もちろん映像技術が進歩したからと言って、傑作が大量に生まれてくるというわけではないが、映像表現の斬新さに限って言えば、現在の映画表現はデジタルテクノロジーに負うところが大きい。デジタルが提供するSFXを嫌というほど見せつけられ、アナログ時代の作品がどうも間延びしたように見えてしまうのは僕だけだろうか。と言って、デジタルの撮影技法はすぐに飽きがくる。作品の鮮度保持期間は昔に比べれば比較にならないほど短い。アナログもダメ。デジタルもダメ。僕の映画脳はどうやら八方ふさがりの状況を迎えてしまっているようだ。

 長く語り継がれる作品というのはもう出てこないのかもしれない。おそらくテクノロジーとカルチャーの蜜月の時代は20世紀で終わったのだ。テクノロジーがカルチャーを死滅させる時代に入っているというのは言い過ぎだろうか。。