「NO DIRECTION, everyday」

184_field51福岡天神にあるイムズホールへ「ニブロール」というディレクター集団の公演を観に行く。僕がダンスを観に行くというのはまこともって一大珍事だ。まともに見たダンスの公演と言えば、知人の河村悟氏によるものしかない。舞踏にしろ現代舞踊にしろ、正直言ってよく分からないのだが、このニブロールは、たまたま、新聞の折り込み広告に入ってきたリーフレットのデザインが気になったので、ちょっと目に止まった。裏面にはこんなことが書いてある。

君と見てきたこの世界。
たとえば同じ場所から見てたとして、
君と僕と見えている景色は同じじゃない。
君と過ごしてきた時間。
たとえば、ひと時も離れずにいたとして、
君と僕と、ずっと一緒だったわけじゃない。
世界はひとつ、ではない。
定められた方向。などもない。
この世界はどこまでもバラバラで、
でも、どこかでつながっている。
そんなことを、秘かに期待して。

およよ。ちとヌースっぽい。。こうしたことをテーマにしたダンスパフォーマンスなら、少し見ておく必要があるのかも。ということで、ホールに足を運んでみたのだが。。。暗転したステージに、いきなりディストーションギンギンのギターサウンドをバックにバグパイプ調のフレーズとバーカッションが鳴り響く。蛍光テープで謎めいた記号を貼付けた衣装を身にまとった数名のダンサーたちが、ステージに飛び出してきて、オープニングはかなりいい感じ。。おっ、これはひょっとしていけてるかも。。という期待で1時間余りのパフォーマンスは始まったのだが。。

しかし、そう当たりは巡ってくるものではない。音楽と映像はそれなりにマッチしていてよかった。テクノ、プログレ、トランス、環境音楽、さらには60年代末のフラワームーブメント的なサウンドなど多種多様な音楽がほどよくミックスされていて、結構ドラマチックに仕上がっていた。ところがだ。肝心のダンスが酷い。酷すぎ。いや、これは好みの問題かもしれないので、僕にとっては酷く見えた、と訂正しておこう。何が面白くなかったと言って、振り付けに建築性が全く感じられなかったところだ。解体や脱構築は20世紀で終わりににできないものか。この公演のタイトルが「NO DIRECTION, everyday」だから、構築的なものを期待する方が愚かなのだが、それにしても、苦痛や、抑圧や、苦悩や、飢餓や、修羅の身体表現はもう飽き飽きだ。

現代音楽にしろ、現代舞踊にしろ、僕がゲッとしてしまうのは、この公演のタイトルにもあるように、NO DIRECTIONでありすぎることだ。ヘルプレス、ホープレスな現代人の苦悩を延々と見せつけるものが圧倒的多数。苦悩を延々と垂れ流しすることが錬金術的な「黒の作業」を意識しているならばそれでもいい。しかし、ほとんどは「Paint it all black」で暗黒以外の何もない。希望ナシ。未来ナシ。出口ナシ。はったりでも、ギミックでもいいから、隅に小さなExitを配せといいたくなる。霊性を失った芸術表現はほんとうに無様だと思う。誰か雷鳴轟く一撃を食らわせてくれないものか。。