人間がいる場所

 思形と感性。この言葉には深い思い入れがある。それは、OCOTに「人間とは何か」という質問を初めてしたときのことだ。最初に返ってきた答えが「二つの性格を持つ軸」というものだった。そこで続けざまに「二つの性格とは?」と尋ねたとき、返ってきたのがこの「シケイとカンセイ」という語彙だった。今になって、それが俗にいう外在と内在、客体と主体という概念の彼らなりの表現であるということがはっきりと分かるが、当時はただただその奇妙な音の響きに魅了されるばかりだった。
 
 さて、この思形と感性だが、ケイブコンパスの図でも分かるように、互いに噛み合う双対のウロボロス的構造を持っている。ψ9の思形はψ8の外在(時空)を観察し、ψ10の感性はψ7の内在(精神)を観察している。そして、これら両者の関係は自他の間で双対関係にある。つまり、時空も精神も二つづつ存在させられているということだ。精神はミクロの点的な世界へと丸まっていく性格を持ち、時空はマクロ世界に発散する性格を持っている。その意味で、精神進化の方向とは、つねにミクロに丸められていき、そこに層構造を折り重ねて行く。この折り重ねにヌース理論がいう「精神=物質」のイメージがある。原子や分子のことである。

 一方、精神進化の方向が見えない意識(中和側という)は、つねに漠然とした時空的広がりの中でパイこね変換のように繰り返される精神進化の旋回舞踏を無条件に受け入れるだけとなる。つまり、精神が作り上げていく次元的差異が見えないのだ。その結果、中和側は時空という同一性の檻に閉じ込められることになる。

 こうした構造の中では、実際には精神が階層を重ねていくたびに時空も多重化していっている。この多重化は丸まった精神側では中性子として映し出されることになる。というのも、精神には時空(中和側)が対化(自身の反映)としてちゃんと見えているからである。進化のプラスに対して反映のマイナスが働き、文字通りプラスマイナスゼロとしてそれは中和されている。こうした中和側が先手を持った認識の中では、精神が作り上げていく確固とした空間構造のカタチは見えず、その構造は残響のようなものとしてしか感じられない。この残響を僕らは「意識」と呼んでいると考えていいと思う。その意味で、意識は精神へのフィードバック機能として稼働している力とも言えるだろう。ヌースの言葉でいう「潜在化した変換作用」である。変換に逆らうものと変換へと再帰しようとするもの。意識はこの両者間の反復において初めてその働きを現働化させることができるのだ。

 ここでザッと周囲の世界を見渡してみよう。君の周囲には数えきれないほどの物質が散在していることだろう。それはいろいろな種類の原子や分子でできている。そこで起こっている無数のスピンに想いを馳せよう。君が意識を持っているのは、それら物質内で起こっている無数のスピンがそうさせているからである。それら無数のスピンとは多種多様な階層における精神活動の影なのだ。このことは単に科学的な意味で言っているのではない。言うなれば、宇宙に存在するすべての物質、それらがほんとうの意味での君の脳だと考えなければならない。物質は天使たちで満たされているのだ。

 精神進化にはある意味、極限点が存在する(ヌースでは「力の超心点」といいます)。その極限点は当然、物質としても時空内に構成されてくる。それは何か——それは「シリ革」でも書いたように永遠なるパルーシアとしての人間の肉体である。ヌース理論においては、人間の肉体は極限の精神存在の付帯質(影)として解釈される。現代科学の目が露にしてきている人間の体内で起こっているすべての生化学的な変化流動は、気の遠くなるほどの等化運動を進めてきた精神の履歴なのだ。そして、この肉体はそれが最後の者の影であるがゆえに最初のものと結合することができる。ここでいう最初のものとは、あらゆる創造の鋳型となるべきイデアの中のイデアのことである。これが宇宙的女性器としてのケイブである。この女性器に発生の起源はない。聖杯と呼ぶにふさわしい聖-処。聖-処女。プラトンはこうした始源の場所性のことをコーラと呼んだ。

——ソコデ、スベテガオワッテイル、トトモニ、ソコデ、スベテガハジマッテイル。

 イデアの中のイデアはコーラであるとともに、モナドでもある。人間という場は、無限大と無限小の結節である。その結節は「重心」と呼ばれ、神の臨在する場所となる。そして言うまでもなく、神のペルソナは人格として現れる。