高次元世界とは空間の深みのことである

幼少期にはまだ生き生きとしていた奥行き。この生ける奥行きはいつ忘却されたのだろう--それは内在的な視線の遷移という側面から言えば、視線が前方から左右方向へと90度回転してしまったことがその契機となっている。

事実、左右からの視線の介入は奥行きを幅へと偽装させ、奥行きの中に生きる主体の本来を無意識の中に沈めてしまった。

無意識の流れからインストールされてくるこの左右からの視線とはもちろん経験的他者のそれとは違うものだ。誰とも特定することのできない抽象的他者、いわゆる大文字の他者の視線である。

日常生活の中でわたしとあなたが向かい合っているとしよう。その様子をわたしたちはすぐにイメージすることができる。このイメージを持つこと自体が、すでにわたしの中に大文字の他者の視線が宿っているということを意味する。

わたしの中に侵入した何者かが、向かい合うわたしとあなたを横から見ているのだ。この視線は向かい合うあなたとわたしの前を真っすぐに横切っているのが分かる。それはわたしにも、あなたにも、単なる一本の直線にしか見えない。

しかし、こうした線にも神霊が宿っていることをわたしたちは直観しないといけない。目の前の水平線とは大文字の他者にとっての奥行きに相当する線であり、奥行きの本来をi(虚軸)とすれば、この線は自他の奥行きを併せ持ったi×i=-1であり、時間の起源となっている線だと思われる。

奥行きの本来においては、わたしは世界と一体である。しかし、こうした左右からの視線は「わたし」を世界とを引き離し、「わたし」を世界の部分へと切り離す。そこでは多の中の一としてのわたしが誕生させられるのだ。

主体は自分の存在の中心にこうした大文字の他者を迎え入れることによって初めて自分を自分として見ることができるようになる。自分が自身の他者となって、全体の一から個としての一を眺めるシステムが整うことによって自我の基盤が作られるのだ。

その意味でも左右からの視線の介入は自我意識の成り立ちに欠くことのできない条件となっている。真横に走る水平線。。。ラカンのいうところの「一の線(トレ・ユネール)」。OCOT情報はこの線のことを「位置の等換」と呼ぶ。ドゥルーズ=ガタリ的に言えばヌーメン(神霊)の働きである。

この「位置の等換」の線が常に目の前を水平に横切るものだと固定的に考えてはいけない。それがわたしたちの本来の奥行きに重なって機能することもある。単純な話、わたしが第三者的に立ち振る舞うとき、その視線は常にこの「位置の等換」の線上をなぞっている。

あなたが二人の仲を取り持ったり、仲裁に入ったりするときはもちろんのこと、奥行き方向に経過する時間を見ているのであれば、そのときあなたは常にこの「位置の等換」の線上の視線で世界と接しているということになる。

このように考えただけでも、奥行きと幅の関係は僕らが普通に想像するよりもずっとずっと深い。。単なる時空という枠組みでモノを見るのではなく、空間のこの深みの中に僕らは深く深く潜行していかなくてはならない。高次元世界とはこの深みのことを指すのである。