モノとタマの重なり

『妖怪から学ぶ世界の不思議』 ——甲田博士がモノとタマを巡って妖怪論のレクチャーをするようだ。案内文を読んでるとヌーソロジーの視点ととても関係がありそう。

http://kokucheese.com/event/index/131699/
※6/1イベント終了

【甲田博士のレクチャー紹介文】私たちの祖先は、モノ(物)を単なる”物質”だとは考えていませんでした。モノは物質であると同時にタマ(霊)であり、時に不思議な作用をおよぼすものと考えていたのです。そしてこのタマとモノはちょうど裏側から重なるようにして存在していると考えてきたのです…。

タマとモノがちょうど裏側から重なるように存在していた——このへんはOCOTが伝えてきたことと全く同じことを言っている。OCOTは人間の意識が覚醒を起こすと「モノは垂質に見えてきます」と言っていた。OCOTに拠れば、「垂質」というのは観測者の周りに広がっている空間のことを指すらしいのだが、しかし、一体なぜそんなものがモノと同じものに見え出すと言うのか。

こうした認識にたどり着くために空間に対してどのような見方をとればいいのか、それこそ長い年月をかけていろいろな思考を試みてきた。古代の日本人たちが自然に感覚化していたタマとモノの重畳。現代人がこの感覚を奪回するためにはおそらく純粋思考以外にその方途はないだろう。

身体から広がる空間には実は二つの種類がある。一つは後ろ方向を半径として回転させて生まれている空間、もう一つは前方向を半径として回転させて生まれている空間である。この二つの空間は互いに反転しているのだが、現在の人間の空間認識には後ろを半径としたそれしか認識に上がっていない。

OCOT情報がこここでいっている「垂質」とは「前方向を半径として回転させて生まれている空間」のことであり、後ろ方向のそれは「垂質の反映」と呼ばれる。人間は他者に見られることによって自分の周囲の空間を概念化しているので、自身に実際に見えている空間側(前のそれ)は認識からこぽれ落ちてしまうのだ。

この認識からこぼれ落ちてしまった「前」の空間こそが実はOCOT情報がいう「垂質」であり、僕らの中でうごめいている霊の実体である。僕が「奥行き」こそが人間の実存の場であるといつも言ってるのも、この前=奥行きにこそ僕ら一人一人の純粋持続(記憶が把持されているところ)が息づいていると直観しているからだ。

言うまでもなく、後ろを半径とした球空間と前を半径とした球空間は互いに反転している。人間の肉体はその意味ではこの相互に反転する空間の間で蝶番のような役割を果たしている。僕らが外在と呼んでいる世界は言うまでもなく「後ろを半径に持つ球空間」の方である。肉体の移動や運動はこの「後ろに半径を持つ球空間」の中で概念化されている。

一方、「前を半径とする球空間」において身体は全く動いていない。というのも、何を見ようが、どこに赴こうが身体にとって前は常に前でしかないからだ。

観点において自らが自転するとき、確かに前は球状の空間を作り出しているイメージがある。しかし、このイメージだけではOCOT情報のいう「垂質」を作り出すことはできない。それではまだ「垂質の反映」のイメージがまとわりついているのだ。垂質と垂質の反映の関係は互いに反転しているのであるから、この自転する観点を球面化させ反転させたときに垂質の本来のカタチというものが顕在化してくることになる。垂質が「霊」であるのならば、その球面で覆われた球空間こそが、すなわち僕らの「霊」と呼んでいいものになるだろう。

この段階までイメージできてくれば、最初に書いた「タマとモノの重なり」が見えるまでもう一歩というところまで来ている。モノは空間的にも時間的にも局所的な存在だが、タマは非局所的存在だ。人間がモノを認識できるのは、こうした無時間・非局所としてのタマの重なりがあってこそなのだ。

モノが垂質に見えてくる時代がもうすぐやってくる。それは同時に魂が肉体から離れ「霊化していく」ことを意味している。