霊的唯物論の地平へ

外界と内界の区別がつかないような知覚能力を出現させなくてはいけません。ただ、その達成のみが人間を自由にするのです。なぜなら、その知覚に浮上してくるものが自らの由縁でもあるからです。
 
本来、オカルティズムとは霊的唯物論であるべきなのです。「隠された叡智」という語の響きに惑わされて、叡智を何か深遠な超越的基盤と見なしたがるのはルシフェル的な熱病にすぎません。ヴェールで覆われたその叡智は、すでに自然の中に含まれているのです。自然とはそれほどに十全なものです。
 
その意味でも、自然科学と霊的思想や哲学的思考が真っ二つに分断されている現在の知の状況には悲劇的なものがあります。
 
科学主義のような物質的な超越も、宗教主義のような精神的な超越も、いずれも生命に対して暴力的にしか作用しないということ。そのことがこれからの時代は浮き彫りにされてくると思います。
 
科学的思考にしろ、宗教的思考にしろ、「わたしが思考する」ということに変わりはありません。問題はこの「わたし」という思考の定点です。この定点を取り去らなければ、霊的唯物論を展開している未来的思考の地平は決して見えてこないということなのです。
 
そして、この定点の払拭を行うものこそが、「もはや外界と内界の区別がつかなくなるような知覚能力」だということです。
 
奥行きに虚次元を見る複素空間認識はこの知覚能力を目覚めさせるためのトリガーになるものと確信しています。

複素空間