カタカムナ人の世界へ

相似象学会誌第四号を再読中。久々に読んだけど面白い。時間と空間に対する考え方がヌーソロジーと全く同じ。
 
「トキトコロは現代人の時間空間とは全く関係なく、物質の中に存在するマリ(粒子)であり、物質の質量といわれているものは、このトキトコロのマリの量によるもの云々」P.126。
 
空間や時間といった延長性がどのようにして微粒子の中へと入り込むかという仕組みがカタカムナ人には見えていたんだね。ただそれが「奥行きを通して」というところまでは、楢崎さんや宇野さんは思考していなかったようだ。
 
思考の場を奥行き=持続において、それ自身をカム(潜象化)と見なせば、アマ(延長性)とカム(収縮性)の接続のルートが開き、思考は自在にマリ(粒子)と化し、ヒビキ(霊引き)によって、アマナ(原子核)の構成の場所へと入って行ける仕組みになっている。それが複素空間における回転性だね。
 
そう考えると、現代物理学というのは潜象界のヒビキの地図作成術に携わってきたアマ側の活動のようなものだったとも言えるんじゃないかな。そして、そこに見出されたものがヤサカノマガタマ(七種の単玉)で、これを現代物理学は余剰次元としての7次元球面S^7として見ている。そんな感じだね。
 
でも、大事なことは、こうした知識を対象として所有することではなくて、やっぱり「それに成ること」なんだと思う。これがぶ厚いカベ。だから、自分を持続の中に溶かし込んで、持続そのものとなって思考する努力と忍耐が必要不可欠なんだね。
 
スピノザのように「永遠の相のもと」に、ベルクソンのように「純粋持続に身を投げ入れ」、メルロポンティのように「奥行き」において、ドゥルーズのように「非人称の主体」として思考する分身を内在性の中に育んでいくこと。これが霊性を思考する者にとっての絶対条件と言えるんじゃないかな。
 
でも、それって、すでに生きながらにして死んでいる者だったりして(笑)
 
そう、それでいいのだ(笑)。
 
生と死もまたマワリテメグルものなのだから。

相似象