外に夢を見る時代の終焉

ヌーソロジーがいう空間構造とは持続空間の構造のことだ。だから、それは時間の構造ということでもある。時間の構造はそのまま自己存在の構造となっている。時間は持続と瞬間の連続的継起からなり、それぞれが内在と外在の感覚を意識に与えている。生命もまたこの構造変動の流れにほかならない。

いずれにしろ、自己を時間や空間の内部に立ち現れた”生物学的対象”として見たり、それら対象世界に立ち現れた表象の効果がもたらす心理現象として見ている限り、自己は永遠に謎のままだ。自己の由来はそんなところにはない。

時間も空間も持続の中に生じている。この持続こそが自己の本性である。物質の基礎となっている陽子と中性子とは持続が時間と空間を生み出す構造そのものが、その時間と空間の中に反映されたものだ。その意味では時空は核子から生じるその内部性であり、反対に時空から見れば核子は時空の内部性となる。

物質と精神とは、そのような内部性と外部性の捩れを無限に反復させている”大いなる内”が繰り出す持続の多重な流れが二極化して表層の意識に現れたものにすぎない。私たちが他者と自己と呼ぶものの本性は、こうした外と内の二極性がその極限にまで焦点化したものである。他者=物質。自己=精神。

他者=物質。自己=精神。ついでに言えば、この関係もまた捩れている。そして、そこに”妙”がある。真無限のようなものだろう。

この二つの極が生み出す大いなる内における無窮の運動。両者の間には双方から呼びかけの声が響いている。その内部でどれほどの語らいが繰り返されているのだろう。この声を聴き取る能力のありなしが、”今”を生きる人間の人生の中で試されている。

いずれにせよ、外に夢を持つ時代はもう終わったように感じるね。人間の最終構成とはそのような意味にも取れそう。意識の反転は、現実というものの反転をも意味するということなのだろうね。内に向かうということの意味を真剣に思考する時代の到来・・・。
そうなれば、自然に外は消えていく。