対化を産み出そう!

ヌーソロジーの意識観はおよそ世にある他の全ての意識理論とは一線を画している。というのも「意識は肉体が素粒子に方向づけられるところに生じている」という考え方をするからだ。つまり、脳でも細胞でもDNAでもいいが、物質が複雑に組織化されてところに意識が発生するという考え方はしない。

理由は単純で、物質認識もまた意識の産物なのであるから、意識の発生以前に物質の存在を想定すること自体がナンセンスだということ。そして、全てが意識から始まるとするなら、意識の発生と物質の発生は同時発生でないといけない。そのような前提で思考を立ち上げているということだ。

このような見方をするなら、物質進化と意識進化は同一のものであり、物質を素粒子から人間の肉体にまで組織化していった極めて高度な意識というものが存在することになる。肉体は最高度に進化した意識の射影であるということだ。そのオメガがアルファに円環的に接続したところに人間が生じている。

そのような構造を想定すれば、素粒子が人間の肉体に意識を宿らせていると考えても別におかしくはない。
こうした前提のもとに、物質と意識を接合していくためには、時空と物質を区別していない場所を発見する必要がある。それが奥行きであり、数学的に言えば射影だ。素粒子の場が射影空間になっているのも、素粒子が時空という延長性を物質の起源に回収しているからだろう。
そして、この回収性の中に意識が進化していくための永遠としての持続の場が息づいている。人間の意識もこの持続の場における構造がもたらしているものであり、自己感覚の由来もそこにある。

ここで重要になるのが人間における自己と他者という存在様態の違いだ。自己は奥行きを持つが、自己から見た他者は持っていない。この差異が存在論的差異の本質と言える。しかも、この関係は両義的であり、他者が自己ならば、他者においてはその逆が成り立っている。

ヌーソロジーではこうした存在論的な自他関係を「対化」と呼ぶが、この対化の関係における弁証法的発展が素粒子構造の対称性を形づくり、その構造が人間に自己としての経験的意識を与えていると考える。

現在のように、人間における自己と他者が一般化されている状態では、意識が進化を持つことはない。まずはこの絶対的差異に気づき、対化の概念を空間に染み込ませなければならない。