ヌーソロジーの空間観と人間観

見るもの自身も空間の中に含まれている。それがヌーソロジーの空間観である。今の私たちにはそのことに気づいていない。だから世界が対象のように見えてしまう。見るもの自身が空間に参与してくるなら、世界と自己は分離不能なものとして顕現してくるだろう。これが、ヌーソロジーがいう「顕在化」だ。

この”見るもの自身”の存在は当然「奥行き」の中にいる。そして、この奥行きは3次元の中には含まれていない。もしあなたが奥行きを3次元の中の一つの方向として見ているなら、あなたの魂はすでに他者に乗っ取られている。それは他者から見たあなたの奥行きであって、あなた自身の奥行きではないからだ。

つまり、3次元認識の中ではあなたという存在は抹殺されていると考えてよい。一体どれだけの情報、知識群がこの3次元の鋳型に沿ってあなたにインプットされていることか。それらの知識群があなたをあなたの奥行きからますます遠ざけていく。「抹消された主体」とは、この”奥行き”のことなのである。

知覚的現実として奥行きに長さはない。延長で構成された3次元空間から見れば、奥行きそのものは無限小への射影になっている。そして、この射影としての奥行きが3次元で物質と呼ばれているものの起源、すなわち素粒子になっている。空間の外と内を繋ぐ認識の出現……存在の開きとはそういうものだ。

これはハイデガー風にいうなら、天空と大地の抗争に終止符が打たれるということでもある。天空とは外在性のことであり、大地とは内在性のことでもある。すなわち三才としての天・地・人——世界を形成する要素としての天と地と人。この言葉の本意も存在論的に理解できてくる。

天空の支配のもとに生きるか、大地の意義のために生きるか——すべての人間がこれら両者間の抗争の場に投げ込まれ、両者を調停すべく使命を持って、天空と大地の狭間に送り出されているということだ。そのくらいダイナミックなイメージで自分という存在を捉えなおしてみるのも悪くはない。