12月 13 2005
精神現象学
新著の構成が今ひとつはかどらない。こういうときは普通なら気分転換をはかり、街に出るなり、音楽を聴いたり、映画を観たりするところだが、わたしの場合は違う。自分を徹底的にいたぶる。哲学書を読むのだ。考えがまとまらないときの頭の状態というのはえてして考えているようで考えていないときが多い。思考の問題というより意欲に欠けているのだ。欠けた意欲は気分転換では補うことはできない。徹底して自分を痛めつけるしかない。痛めつけることによる触発が必要なのだ。そうやって今日、本棚から取り出したのは「精神現象学」(長谷川宏訳 作品社)という一冊の分厚い本だ。ヘーゲルが37歳のときに記した代表作である。恥ずかしながらこの本は5000円もの大枚をはたいて購入してはみたものの、一度も読んだことはなかった。
以前、詩人の河村悟から「ヌース理論は理性だからダメだ。ヘーゲルの絶対精神ではダメなんだよ。」と手厳しく批判されたことがある。彼は決してポストモダンかぶれの人ではないが、詩人という立場上、理性的なもの、特に弁証法的な粗雑な思考形式を毛嫌いしていた。河村氏は思想・哲学に関しては生字引のような人物で、当然、わたし程度の知識量で彼に議論を吹きかけるなど自殺行為も同然だったが、カチンときたわたしは「理性には人知れぬ理性というものがありますよ」と言い返した。幸いにもそのときは彼がニヤリと笑っただけでことなきを得たが(笑)、それ以来、わたしにとってヘーゲルは気がかりな存在となっていたのだ。しかし、本格的にヘーゲルは読んだことはなかった。いざ読もうと思ってもなかなか触手が伸びない。ヘーゲルについて知ってることと言えば、弁証法と絶対精神という言葉。遅咲きの哲学者だったこと。カント哲学の批判的継承によって近代哲学を集大成した哲学者。ヤコブ・ベーメの思想に大きく影響を受けていたこと。ルター派の熱心な信者だったこと。このくらいである。
ヘーゲルはもともと弁証法のアイデアを17世紀の神秘家ヤコブ・ペーメからパクっている。自己意識の本性を徹底的に追及していくなかで、彼はそこに神の自己意識を合わせ見た。ヘーゲルの弁証法の基盤はこの人間の自己意識と神の自己意識の弁証法的展開にある。「一切のもののなかに神の三位一体をとらえ、あらゆる事物を三位一体の露呈ならびに表現としてとらえる」というヘーゲルのベーメ評はそのままヘーゲルにも当てはまる訳だ。ヌース理論は基本的にはこの伝統的な弁証法の概念に他者性を取り込むことにより、「ペンターブ・システム」という概念によって双対化し、その運動を空間の対称性の拡張秩序へと転化させ、最終的には「観察精神」という一者へと止揚させていく。その意味では極めてヘーゲルっぽいのだ。
それにしてもこの本のエンディングはいい。やる気がみなぎってくる。
——目標となる絶対知ないし精神の自己知は、さまざまな精神がどのようなすがたをとり、どのようにその王国を構築したのか、という事柄に関する記憶を道案内人とする。その記憶を保存しているものとしては、偶然の形式をとってあらわれる自由な精神の歴史と、それを概念的な体系の形として示す「現象する知の学問」とがある。二つを一つにしたところの、概念化した歴史こそ、絶対精神の記憶の刻まれたゴルゴタの丘であり、生命なき孤独をかこちかねぬ精神を、絶対精神として玉座に戴く現実であり、真理であり、確信である。シラーの詩「友情」の一節にあるごとく、この精神の王国の酒杯から、精神の無限の力が沸き立つのだ。
新しい理性がやはり必要だ。心優しい理性。海のようにすべてを溶かし込む理性。それは男の感性と女の理性を併せ持ったもの。。優しくなければ理性ではない。だろ?




1月 20 2006
夢見るヌース
カフェネプで主観/客観の議論をやっている。この論争は古くは、プラトンVSアリストテレスからカントVSヘーゲルまで、哲学史の潮流全体にわたってアポリアとして解決されていない難問だ。
20世紀になってフッサールが現れ主客一元論を説いた。しかし、フッサールの主客一元論は簡単に言えばそれはコインの裏と表のようなものだと言っただけで、裏と表という二元性が払拭されているわけではない。さらにフッサールの思考の背後にはやはりプラトン的なイデアが垣間みられ、結局のところ超主観的観念論の枠を出ていないと批判されている。 その後の哲学の衰退ぶりは周知の通りである。今や主客問題など一部のオタクをのぞいて見向きもされない。
象徴界の勢力が衰弱してきていることからも推測がつくように、言語的思考はすでに限界に来ている。主客問題を言語によって解決するのは不可能だろう。言語とは本来、あらゆる概念に自己同一性を強いるものであり、A=非Aであるということを許さない。A=非Aならば論理が存在しなくなるからだ。つまり、言語こそが二元対立の温床なのである。そして、言語の本性はラカンが言うように、この「非」という否定性としてある。同一性を支える裏には絶えずこの「汝、それに非ず」が隠されているのである。
だから、実のところ言語は哲学には向いていない。哲学は思考を思考する営みである。概念を絶え間ない連続性のもとに生成していくこと。これが思考に託された責務である。思考は連続性を持つ。絶えず微分可能な無限次元の多様体。それが思考の源泉なのではあるまいか。否定とは切断である。連続性はたった一つのNonで不連続となるのだ。すべてを肯定していく精神、それが創造的知性を働かせていく力である。この力の場はNonさえもすぐにQuiへと変身させていく魔法で満たされている。だから言語では生成はあり得ない。生成の秘密は古代の知恵がいうようにおそらく幾何学にある。幾何学において絶えずQuiを発し続けるもの。それがスピンなのだ。旋回する知性とはそうしたスピンを続けて行く身振りを持つ思考物体のことをいう。
数学でドナルドソンの定理というのがあるそうな。正確な数学的内容は私ごときの頭で理解するのは無理だ。しかし、この定理では4次元空間は無限の微分構造を持つといわれている。つまり、無限次元多様体は4次元空間の中であたかも層のようにして無限数の次元の重層構造を持っていると考えられるというわけだ。宇宙が何故に4次元時空なのか?また、宇宙の原初に何故に閉じた4次元時空が存在したのか。4次元時空から4次元虚時空への移行。。これがホーキングが示した無境界仮説というものだった。ホーキングは時間の始まりの特異点を避けるために虚時間を導入したが、それが虚時間の世界というのなら実時間とは無縁のはずだ。ならば僕らは、今、思考の力によってこの虚時間を導入すればいい。それがヌースが主張していることだ。虚時間とは意識の方向性の反転である。i側に囚われた意識を−i側へと変えること。他者の眼差しの中に自分を見ているならば、いっそのこと自分の眼差しを他者だと思えばいい。これがヌースにおける交替化の奥義である。主体の交換は可能なのだ。この反転を挙行すれば、そこは宇宙の始源であるアルケーとなる。虚時間が訪れるのだ。
硬式野球のボールは糸でグルグル巻きにされているが、中心にコルクが芯として埋め込まれている。アルケーに出現する純粋思考の辿る足跡はこのコルクの芯に始まって、次元を無限に上昇していく。このボール作りにとって、芯となるのは3次元球面である。純粋思考はこの球面をスタート地点として、自身の肉厚であるn次元球面を作り上げていく。それがおそらく物質の本性である。この思考の糸は途中、幾度もNonの応酬に合う。しかし次元の連続性を紡ぐための技を会得しているゆえに、身軽に旋回し、精神の空間を上昇していく。素粒子から原子に見られる旋回性はその連続技が転倒した逆写像である。途中の抵抗は有機分子としてその形跡を残す。
さて、となれば、宇宙創造を巡る純粋思考の原点は3次元球面にある、ということが言えるだろう。わたしが先日、3次元球面で大騒ぎしていたのも、このへんの事情があったからだ。3次元球面の回転軸に当たるのは、代表的なものを取れば電子のuスビンとdスビンだ(実際には不確定性原理によりスピンの軸は直立しないが)。この球面のSO(3)もどきの3軸を考えれば、それはアイソスピンと呼ばれるものになる。そこに陽子と中性子が生まれている。3次元球面が見えているのだから、今のわたしにはこの両者も見える。アイソスピン………何と的確な命名だろうか。。しかし、同時にそれは皮肉な命名でもある。
生成の構造は信じ難いほどシンプルだ。このシンプルさは、主観と客観の一致が果たされれば子供たちでも容易に理解できるようになるだろう。主観と客観の一致。それは言語的思考ではなく、幾何学的思考によってまもなく果されることになると思う。唖然とする世界が待っている。新しい時代のコペルニクス的転回までもうすぐだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, プラトン, ラカン, 主観と客観, 素粒子