7月 19 2025
意識は生き物のように常に変化し続けている
OCOT情報では、ピラミッドは超古代人たちが「付帯質を外す」ことで、重力を軽減させ建造したという。
「付帯質を外す」とは、外延空間の認識を無くし、内包から世界を見る、ということを意味している。つまり、フィシス(自然)との一体感を持つ意識を持っていたということだ。
超古代人たちは、進化の方向が今の人類とは異なる方向に進んでいた可能性があり、自然との調和の中で物質世界や自然界の力を、今の私たちとは全く違った感覚で捉えていたということだろう。
もし彼らが、今のように物質を「外部の客観的現象」として捉えるのではなく、内包的な視点から見ていたとすれば、物質や重力に対する認識自体が根本的に異なっていたはずだ。
これは、まさに「フィシス的世界観」——すなわち、自然と自らの意識が分離されることなく、自然そのものとして存在していた状態に対応する。
このような意識状態においては、重力という物理的な力も意識の拡張や流動の一部として捉えられていたに違いない。
その結果として、物質や空間に対する制御が現在とは異なる形で行われていた可能性もある。
ピラミッドのような巨大建造物が作られたことについても、重力を制御するのではなく、むしろ重力の影響が内包的な意識の流れによって弱められていたと考えることができる。
わかりやすくいうなら、超古代の人々は、自然の流れに逆らわずに、自然の一部として建造物を作り出していたのではないかということだ。
現代のような技術的なアプローチではなく、自然の力を直観することで巨大な石を動かし、建造物を作り上げたというイメージだ。
これにより、彼らは重力を物理的に克服するのではなく、重力そのものを意識的に制御し、物質を軽く感じることができたのかもしれない。
もちろん、このような発想は、古代文明の神秘的な側面をより深く理解するための一つの可能性に過ぎないが、特に巨大な石造建築の謎を、現代の技術や物理法則の枠外で考えるきっかけとはなるだろう。
SF的な視点だが、「重力を操作する意識」や「自然と一体化した認識」というテーマは、これからの人間の意識の進化と主客一体としての宇宙の構造を考える上で非常に魅力的なコンセプトとなるはずだ。
もしかしたら、未来の科学や意識の探求が進むにつれて、このような考え方が新たな理論の基盤となる日が来るかもしれない。
手前味噌ながら、ヌーソロジーはその最先端を走っている(と思っている)。
9月 3 2025
まずは、他者視点化している自分を自覚すること
他者視点化しているから、「存在が物質となって目の前にあ現れている」という感覚が生まれている。つまり、存在が対象化されて、存在者となってしまっているわけだよ。自己視点ではそもそも対象化は起きていないし、存在と自己は一体化している。それが「いつでも今、どこでもここ」という感覚と直結しているわけだよ。
空間認識をAdS空間からCFT空間へ移行させるためには、まずはこの移動感覚を意識に根付かせないとダメ。これは見ているものと見られているものが一対一で対峙する感覚だね。持続の中だから当然そうなる。無数の対象は持続の中では目の前の空間のなかですべて重なり合ってるんだよ。非局所だということ。
非局所的な物と非局所的な身体。この関係がOCOT情報が「力の対化」と呼ぶものになっている。観察子でいうとψ5とψ6の関係。NC図だと右側の球空間と真ん中の球空間の関係にあたる。(3次元射影空間はRP^3)
ラカン的にいうなら、「他者視点化していない」とは一切の去勢を受けていない、つまりは想像界的虚勢も象徴界去勢も受けていない精神の大いなる健康を取り戻すということになるのだが、ラカンはそれは不可能だと言っていた・・・ような。
AIの登場によって自他間で営まれていた言葉とイメージの交換(宇宙的性愛)がもはや意味を失いつつある。言葉を食い尽くしていくべき人間が、言葉に食い尽くされ、その結果、イメージもまた言葉の汚染を受け、言葉の檻から出れなくなっている。自己視点の消滅した世界にはもはや人体さえもなく、人々は言葉の死霊となって無意味を生きる。
NC図を見ると分かると思うが、「自己視点を取り戻す」とは自らの中に生きる永遠を自覚するということを意味する。時間には始まりも終わりもなく、永遠の今として自らを取り巻き、空間もまたすべて一点に集約され、ありとあらゆる記憶を持続の名において物質として折り畳んでいく。自己とは本来そのような存在である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 3次元射影空間, Ads, CFT, OCOT情報, ヌースコンストラクション, ラカン