8月 12 2014
ヌース用語としての「等化」と「中和」のイメージ………2
さて、前回のつづきです。
無意識の意識化が「空間認識の変容」として生起してくる、とはどういうことかについて、できるだけ平易に説明していってみますね。
まずは、前回お話しした「中和の状態として活動している自我」が空間的にどのように把握されているかを考えてみましょう。おそらく、多くの人が自分の自我の極をモノの外部の空間に位置していると感じ取っているはずです。肉体の位置のことですね。目の前にモノがあって、その手前に自分がいる——こうした自然な空間感覚です。
モノと「わたし」とのこのような常識的な配置イメージこそがOCOT情報が付帯質と呼んでいるものだと、とりあえずは考えて下さい。モノという概念、そしてそのモノの手前に自分がいるという自我感覚。これらが付帯質そのものが持った力だということです(正確には「付帯質の外面の次元」といいます)。
こうしたイメージを今まで人間がごく普通の感覚として持ってきたのは、昨日、お話したように、裏でそのように仕向けている精神の力が作用しているからですが、OCOT情報はその精神が2013年から方向を回転させると執拗に言っていた(笑)。そして、ここに登場するのが「進化の精神」というヤツですね。
進化の精神の力が出現してくると、付帯質は自らを精神へと変態させていくことになるわけですが、それが人間の空間認識にどのような変化として表れてくるかというと、極めて単純なものなんです。文字どおり自我の位置に対する認識の方向を反転させるだけでいい。つまり、今までモノの手前にいると信じて疑わなかった「わたし」の位置をモノの背後側へと反転させるだけで構いません。これが反転認識の第一歩です。
「わたし」の位置がモノの手前側からモノの背後側へと反転するということは、モノの背後にある奥行きの中にわたしの存在を感じ取っていくということになるのですが、これは現在、多くのスピ系の人たちが「見えている世界とはわたし自身なのだ」と朧げに直観し始めていることと同じ意味を持っていると考えていいでしょう。
では、 この——「モノの背後側」の奥行きの方向に「わたし」を感じ取る——感覚とは、一体どういう感覚なのでしょうか。次回はそのことについてもう少し。。
8月 26 2014
魂の奪回——失われた真の対象を取り戻すために
僕らが物質と呼ぶものは飼いならされた奥行きにおける産物である。「飼いならされた奥行き」とは、もちろん幅化してしまった奥行きのことだが、この奥行きの幅化は本来の奥行きの左右方向への遷移(左右からの内的視線の介入)によって生じている。奥行きが幅になるとき、幅は同時に奥行きへと変わる。
奥行きを虚軸、幅を実軸とするなら、これは虚軸と実軸の相互変換であり、このような変換はパウリ行列のσ1の特性になっている。空間の中には事実としてそのような変換機構を持つ仕組みが存在しているということだ。
奥行きの幅化は当然のように対象と主体を引き離す。これによって本来奥行きの名のもとに主体と一つに溶け合っていた物質は主体にとって「失われた対象」と化す。引き離された主体はその失われた対象のもとに帰ろうと欲望するが、左右からの視線がそれを許さない。ダブルバインドがここに生まれる。
上位の審級としての超自我の視線。そのもとに生じる幅化した奥行きの上で主体は文字どおり肉体を持った自我となり、下位の審級として飼いならされる。こうした構図からも物質という概念がいかにオイディプス的産物かが分かるだろう。
超自我、自我、時間、空間、物質。そして、あの悪名高きシニフィアン。。これらはすべて一つの権力のシステムとして連動している。このシステムに徹底したレジタンスを仕掛けることが必要だ。戦場は常に内在野だということ。それを忘れないようにしよう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: パウリ行列, 奥行き