4月 15 2019
ブラックホールとは何か
科学者の研究チームが、「ブラックホール」の撮影に人類史上初めて成功したらしい。このニュースを受けてヌース界隈でもおなじみのΦ氏が、ツイッター上で興味深い発言をしている。
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ブラックホールというと、私の勝手なイメージでは、象徴界的な世界の中心に君臨するはずの「ゼロ記号」が不在となっている世界のようなイメージがあります。
21世紀以降の現代は、それまで象徴界に君臨していた王たる「ゼロ記号」を中心軸とする神経症的な近代自我的な世界観が崩れて、まさに大いなる父が不在となってしまった感があります。それはある種分裂症的な世界観です。
それこそが以前ポストモダンだとかポスト構造主義としてもてはやされた世界観であり、今の時代はその一見「普通じゃない」世界がついに「普通」になった時代だと言えるかもしれません。
人間が見ている世界において、ブラックホールが初めて撮影されたという歴史的成果は、科学的には喜ばしいことであると同時に、人間の意識世界的には、ついにそうした「大いなる父の不在」が顕在化し始めた象徴的出来事と言えるのかもしれません。
つまり、まさに超コードの象徴とも言える恒星が自分自身の重みに耐えきれずシステム崩壊して脱コード化して何者でもないものになり、中心を失った世界。それが人間の顕在意識上に浮かび上がってきたという感じです。
さて、というわけです。人間はこれからどうした世界を描いていくのかを、ある意味突き付けられてきた象徴的な出来事なのかもしれません。
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以上がΦさんのツイート。
ヌーソロジーでも概ね同じようなイメージを持ってるのだけど、ただ、ヌース的な視点からはブラックホールは「超コード化のシステムが崩壊する」というよりも、むしろ、超・超コード化するウルトラ超コード化の象徴のようにも見える。
というのも、かつてのOCOTとのやり取りの中に次のような内容があったからだ。
コ:ブラックホールとは、定質が下次元に働くときに生まれているものなのですか。
オ:違います。人間の意識に働くときの位置が内面を持つ方向と、持たない方向に分かれるが、方向を持たない性質がブラックホールとして現れます。
「人間の意識に働くときの位置が内面を持つ方向」とはヌーソロジーが言ってる「顕在化」に当たる。この文脈から言えば、ブラックホールとは人間の無意識の顕在化が逆方向に向かう力の射影物ということになる。
『奥行きの子供たち』にも書いたが、これはエージェント・スミスのザイオンへの侵入の狼煙のようなものだ。
「顕在化」は自己意識が自分自身を素粒子として認識するところから始まる。その反対方向とは、その様子を自己が他者空間の中に見てしてしまうということを意味している。
それが具体的に何に当たるかは、発売した『奥行きの子供たち』に詳しく書いてるので、そちらを読んでほしい。。PRね(笑)
世の中には未だにテクノロジーの進歩が、人類の進化だと思い込んでいる種族がたくさんいる。と言って、彼らがテクノロジーの正体を知っているわけでもない。
一体、テクノロジーとは何者なのか。
ブラックホールの感性世界への出現を機に、このあたりで一考してみるのもいいのではないか。
4月 26 2019
ヌーソロジーの世界観の基本
奥行きを相互外在的な関係からなる物理的空間と同列に並べることはできない。その意味でも奥行きは内在=持続の場所である。ヒュームの言葉を借りるなら、奥行きこそが人間本性(human nature)の場なのだ。奥行きは幅化した奥行きと協働し感性を作り、印象の束を一つの主体へと仕立て上げていく。
感性に始まり、悟性、理性、構想力という、あのお馴染みの「超越論的なもの」の活動する世界が、この奥行きの奥裏に広がっているということだ。ここに本当の意味での人間的自然が展開されている。この自然のことをブーバーや西田なら「永遠の我と汝」と呼ぶことだろう。
この永遠の我と汝の活動が産み出す超越論的なものが、人間の経験の可能性の条件の一切を与えていると言っても過言ではない。物理的な自然に現れる「自己」や「他者」といった存在は、その結果の産物のようなものであり、世界とはすべてがそうした結果の中で展開しているドラマのようなものである。
ブーバーは「我-それ」と「我-汝」を、宇宙の根底的な二元性と見なしたが、私たちが生活の中で味わうすべての精神的苦痛は、世界が「我-それ」の基軸の方にあまりにも傾いて動いているからだ。それ以外に理由はない。「我-それ」は物理的自然を、「我-汝」は精神的自然をそれぞれ意味している。
人間は精神的自然を忘れてしまった。だから、精神的自然と物理的自然とのつながりも全くイメージすることができなくなっている。精神と経験科学を結びつけるための絶対的な絆が必要だ。ヌーソロジーが奥行きを通して素粒子を思考していることの意義もここにある。
と、このあたりで固い哲学用語は抜きにして、この精神的自然というヤツと物理的自然というヤツの関係を、ヌーソロジーのフィルターを通して図に示してみよう。これは、ヌーソロジーの世界観の基本と言っていいものになる(下図参照)。
極めて簡略化した図なので、材料が足りないかもしれないが、ヌーソロジーに関心がある方はゆっくり考えてみて下さい。尚、Φ13~14は他者側ではΦ*14~13の関係になります。
この図で、総体の定質の対化と性質の対化が等化を行っている状態が「光」です。
定質の等化が電場振動、性質の等化が磁場振動。
「光」はその意味で、人間の肉体を作り上げている精神とも言えます。
OCOT情報は光のことを「総体における止核精神」と呼んでますね。
光は精神の中間休止状態とも言えます。
光が幅方向から奥行き方向に向いたとき(反転の意味です)、止核精神は止核化を解除し、素粒子空間にアクセスして世界内部空間(この図に描いたウロボロス的円環の世界)に入っていくというストーリーになっています。
ヌーソロジーもそのシナリオに沿って思考を進めています。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, 素粒子