8月 6 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その6
前回よりのつづき――
現代思想はと言えば、このハイデガーの前期の思考の場所でいまだに右往左往しているようにも思える。それはまさにハイデガーが仕掛けた現存在の二重襞による呪縛のためだろう。現代思想が陥ったこの思考の停滞は人類が資本主義そのものを乗り越えるための次世代の世界ビジョンを何一つ提供できていないことにも如実に現れている。資本主義を駆動している力の源泉はフロイト的に言えば快感原則にあるが、この快感原則はラカンによればシニフィアン(記号=欲動)とシニフィエ(目的=意味)とを結びつける規則(超越論的シニフェ)であり、その体制下で生産されるすべてのシニフィアンはそれに対応するシニフェへと必ず送り返される運命にあるとされる。このことはアッシャー圏の特異点たるティファレトに穿たれた穴が快感原則そのものによって塞がれていることを意味している。このティファレトは確かにイェッェラーという語り得ぬもの=異界に接してはいるものの、その異界に何か名が与えられた瞬間にそれは再びアッシャー圏へと回収され、語り得るもの=意味、目的として回帰してくるというわけだ。つまりはアッシャー圏の内部を流動する欲望の流れは常にティファレトの上位へと出ることを欲望しているのだが、その欲望自体が主体を構成する精神分析的な言語システムの網の目に絡み取られ、再び内部へと還元され、脱出口のない無底の循環を繰り返しているという筋書きである。
こうしてヌーソロジーというアッシャー圏の外部を目指す思考の運動が出てきたとしても、それはこうして半田広宣という主体の語りによって言語化され、そこにある一定の意味が付与され、一つのイデオロギーとなって、さらには貨幣へと換算され、資本主義の体制をより強固なものにしていく。まさにその構造は浅田彰が『構造と力』の中で示したクラインの瓶のように、外部への開きが結局はまた内部へと回帰してくるような閉空間の構成を取っているのである(ヌーソロジーではこの閉空間は7次元球面のトポロジーを持つと考えている)。こうした欲望回路の在り方は1920年代にすでにM・デュシャンが『大ガラス』の中で独身者のオナニーマシンとしてエロティックに揶揄していたものでもあるのだが、あれから猶に90年を経過しようとする現在でも、この閉回路はますます勢力を増すばかりで、いっこうに衰退する兆しを見せない。果たして、この気も狂わんばかりの資本主義回路のハムスターホイールから抜け出る方法論などというものが存在し得るのだろうか――一つだけ言えることは、もしそのような方途が存在するとすれば、それはもはや言語的なスタイルを取るものではないということだろう。現代思想の状況が相も変わらず言語的な観念の同一性の中で終始し、些末なジャーゴンで支配されている現状を見れば、実はラカンが登場した時点で、いやヴィトゲンシュタイン当たりが登場した時点ですでに哲学は終わっている言える。事実、今の哲学は諸学の王とは到底呼べない位置にまで凋落し、科学哲学や政治哲学という名が示す通り、科学や政治の太鼓持ちに成り果てているのが現状だ。
では、言語の一体何が問題なのだろう。それは再三、言ってきたように、言語の背景に厳然と横たわっている同一性である。AはAでなければならないとする同一性。この約束事がなければ言語は言語としての体制を保持することができない。この同一性はカバラ的に言えば一者たる神自身の同一性によって支えられているものであり、こうした支配の下ではまさにすべての言語は固有名はおろか一般名詞に至るまで神名として機能していることになる。つまりは、わたしたちが用いる言語の一字一句に至るまであの「Y-H-W-H」の四文字がMade in Godの証として署名されているのである。
であるならば、この強制力から逃れるための方法はおそらく一つしかない。それはケテルの玉座に座する神の殺害を試みることだ。そして、その囚われの身となっている花嫁たるマルクトに性転換手術を施し、マルクト自体を一者たるアインに変身させるしかない。それはニーチェやハイデガーが取ろうとしたブラトニズムの逆転をこの生命の樹にもダイレクトに導入するということでもある。マルクトをケテルに見立て、被造物の世界自体を無(アイン)と見なす視座を作り出すこと。これがこのブログ記事の冒頭で紹介した「カバリズムの逆転」という発想だ。ヌーソロジーのOCOT情報の解読はすべてこの視点で行われている。だからヌーソロジーが現実の社会にどうコミットするかだとか、ヌーソロジーが人生の役にどう役立つなのかといった同一性が支配する内世界的な問い立ては、ヌーソロジーの思考の中においてはあまり意味を為さない。僕が常々、ヌーソロジーとは全く別の世界を内在野の中に構築することを目的とするものであると言ってるのも、思考背景にこうした絶対的差異の線引きをしているからである。つまり、ヌーソロジーはこの世とは何も関係を持たない死者の思考なのである。
死者の思考。反転した世界。反転した生命の樹——。
逆転したカバリズムの視座においては、すでにおのおのの存在者を神として見なさなければならないということ。おのおのの存在者が神であるならば、どの一つの存在者をとっても、それらは一切が無(アイン)であるということ。そして、存在者が神であるならば、一つの存在者自身は世界を創造していく力能をすでに所持しているということ。こうした思考を以て初めて、存在者から立ち上がってくる光は一者=神から流出する光へと相転移を起こし、そこに新たな創造空間を切り開いていくことができるのだ。「光あれ!」という宇宙開闢の号令はもはやヤハウエの声ではない。その号令は被造物である存在者によって今こそ発せられなければならない。同様にまたユダヤ神秘主義が受け継いできた生命の樹ももはや生命の樹ではあり得ない。それは知識の樹による生命の樹の隠蔽である。この知識の樹を転倒させること。人間こそが存在の根であるという正立像を奪回すること。魂の上昇とは無からの創造行為をおいてほかにあり得ないのだ。
——つづく
10月 19 2010
スピノザと量子世界
先週の日曜日、久々に書店へ。そこで「スピノザと表現の問題」(ドゥルーズ)をゲット。以前から気になっていた本だ。パラパラとページをめくってみる。「差異と反復」よりは読み易い。スピノザの思考自体が僕の好みだからだろう。
スピノザはレンズ磨きの職人でもあった。ポルトガルからユダヤ教徒としてオランダに移住してきた両親のもとで育った。彼自身はユダヤ教の神にもキリスト教の神にもなじめず、一人孤独に自分自身の神を求めた。そんなスピノザにとってレンズとは自分自身の理性の目の象徴だったに違いない。レンズは視力を矯正する道具だが、スピノザが取った哲学に対する幾何学的方法論もまた人間の精神を光学的に矯正しようとするレンズ磨き的なアプローチだったと言える。
スピノザは、観念の秩序や連結は物の秩序や連結と同じである、と言う。というのも、結果についての認識は原因についての認識に依存しているがゆえに、その原因の認識をも含みもって成り立っている必要があるからだ。僕らが見ている世界とは言うまでもなく結果である。この結果としての世界には神の所作(創造)という原因がある。だから、人間が行うあらゆる認識は神の認識に依存している。しかし、人間の認識は神の認識を棚上げにし、人間の認識に基づき理性を働かせている。認識における半分がまるまる欠落しているのだ。
このようなスピノザの思考手順を考慮した場合、事物のほんとうの認識に到達するためには、事物の創造を引き起こしたところの認識に出なくてはならないことになる。こうして認識を突き詰める思考は必然的に神の思考領域へと誘われる運命を持っており、最終的にはスピノザ的な存在論にたどり着く。
こうした存在論をもとに、スピノザは認識を以下のような三つの種類にカテゴライズした。
第一種の認識——記号、または感覚に基づく認識
第二種の認識——「共通概念」に基づく理性的認識
第三種の認識——第二種の認識からのみ生じる直感知
スピノザがいう事物の真の認識とは当然のことながら、ここに挙げた第三種の認識によって行われるものである。第三種の認識のみが事物のほんとうを言い当てる。そして、事物のほんとうを言い当てられたときは、それは事物の創造の現場に立脚した生成の流れでなければならない。そこで事物は始めてスピノザの言う実体となり得るのだ。
さて、以上のようなスピノザの論法に立って、現在の科学的思考が物質を認識している態度を見てみよう。科学的認識は典型的な第二種の認識だと言える。公理という前提を立て、そこに万人に共通する概念のネットワークを設け、物の秩序や連結を事細かにその約束事のもとで記述する。この記述の積み重ねを通して、科学的思考においては物質生成の根本的原因は物理世界を支配する4つの力へと還元された——ただ、ここに大きな問題が露呈してきた。現代科学が量子的レベルで「物質の秩序と連結」といったとき、それはもう表象のレベルではその像を結ぶことができないような世界なのだ。つまり、物質の最下層を支えている量子という存在はもはや物質と呼べるような代物ではなく、物質的表象では把握することのできない何者かへとその存在の様式を変化させてしまっている(不確定性原理では位置と運動量、エネルギーと時間等を同時に測定することはできないとされること等)。
OCOT情報では、こうした表象不能となった量子の出現を人間による「認識の完全化」が起こる前触れと見なしている。これはスピノザの言葉を使えば、量子世界は第三種の認識を持ってしか把握できない、もしくは、第三種の認識の様態こそが量子世界の本質であるということを示唆しているのではないか。電子銃から発射された一個の電子が、複数のスリットを同時にすり抜け、スクリーン上にはまた一個の電子となってその跡を残す,等々——・まるで亡霊のような振る舞いを見せる量子。しかし、第三種の認識にとってはこうした量子の挙動は当たり前のことのように把握されるはずだ。
スピノザは第三種の認識は永遠の相の下に行われるという。
——永遠の相においての対象は事物ではなく観念である。観念は個物を説明するのではなく、すべてのものに共通するものを説明するがゆえに、それは時間とは何の関係も持たず、永遠の相の下において考えられなければならない(エチカ)。
たとえば、電子を事物の位置を規定する観念の力そのものと考えてみよう。当然のことながら、事物のあらゆる位置は一つの位置という観念によって規定されている。となれば、観念は常に一つであるがゆえに、一個の電子の位置はときとして二個の穴の位置、いや無限数の穴の位置への変身であっても一向に構わず、また、それが到達点の位置としてスクリーン上へと達したときは素知らぬ顔である特定の位置を把握するための観念として一個に収束してしまっても何の不思議もない。つまり、観念がそのまま実在とリンクしているところ、それが量子的世界なのではないかということだ。その意味で言えば、量子的世界とは時間の中に永遠の相が顔を出している部分だとも言えるのかもしれない。「最も抽象的なものこそが最も具体的なものなのである」と言ったハイデガーの弁は、まさに物質において成り立つ。
ここでの量子のイメージをさらに突き詰めるならば、世界の原因の認識(はじまり)と結果の認識(おわり)との接触が量子力学という事件として起こっている、という言い方もできるだろう。もし、そうならば、量子をスピノザの言葉で言うところの所産的自然と見なすことは御法度である。量子は作り出されたものではなく、作り出すもの、つまり、創造のためのアプリケーションと見なす必要が出てくるからだ。そして、事実、量子のみが延長において人間の思惟(観測者)とのインターアクションを持っている。思惟と延長とが作る平行線が交わるところ。これはスピノザの定義に従えば実体にほかならない。つまり、量子とは能産的自然の世界への扉として再解釈されなければならないのだ。
この時代にスピノザを召還する者は、スピノザの精神に倣って、量子を見るための光学的方法を設計しなければならない。それは4次元を大地とする場所に降り注ぐ光の生態学であり、一切の個物に関する知識を捨て去った無時間の学と呼んでいいものである。物質と精神はそこで初めて第三の実体としての神の思考へと変貌することができる。そこにおいて、僕らはスピノザが垣間みていた宇宙的倫理の意味を初めて理解することが可能になるだろう。それは共同体の指標を喪失してしまった現在の僕らこそが最も必要としているものなのではないか。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌 • 0 • Tags: スピノザ, ドゥルーズ, ハイデガー, ユダヤ, 差異と反復, 量子力学