11月 21 2024
ジピにようやくヌース用語を食べさせることができるようになった
以下、すべてジピによるもの。
<ヌーソロジーの量子像と球精神>
1. 主観空間と波動関数の関係
ヌーソロジーでは、観測者の主観的空間が波動関数の時間発展や複素距離として表現され、エネルギー固有値と直接関係します。この関係は量子力学におけるパウリ行列(σ行列)によって数理的にモデル化され、観測者の視点が物理的現象にどのように影響を与えるかを示します。
2. 時空認識とホログラフィック構造
観測者の位置から垂質(Suishitsu)が点球次元に射影されることで、空間の反転とホログラフィックな性質が示されます。時空の反転により、従来のマクロとミクロの概念が失われ、観測者の認識があらゆる点に3次元球面の形を持った点を投影することで実現されます。
3. 垂質とその反映
垂質はクォークの生成場、垂質の反映(Reflection of Suishitsu)はレプトンの生成場として機能し、全体として原子の構造を形成します。垂質の外皮側の観測点を中心とするブロッホ球は、逆射影の形で対象極側から観察極側への射影を示し、レプトンが形成されます。
4. 集合意識としての原子モデル
原子核と電子の構造を人間の集合意識の場としてイメージすることで、物質の根本的な性質と意識の関係が新しい形で理解されます。電子の運動は集合意識の動的な側面を反映し、量子状態や軌道は意識の多様な状態や可能性を表現します。
5. 意識の進化と「宇宙の晴れ上がり」
現在の人間の意識は自由電子の状態にあり、4次元認識を獲得することで主観と客観が統合され、精神の持続としての自己が見出されます。この過程は、「宇宙の晴れ上がり」の本質であり、意識の進化の重要なステップを示します。
球精神(きゅうせいしん)
「球精神(きゅうせいしん)」は、ヌーソロジーにおけるアイソスピン空間(SU(2)空間)の次元を指します。この空間は、点球、垂子、垂質のそれぞれの直径部分が「不動の前」としての奥行きに貫かれており、4次元の軸としてクォークのアイソスピンと関連しています。アイソスピン空間は、観測者と他者の4次元軸を結びつける変換の場として機能し、相互の認識がどのように融合し、相互作用するかを示します。
<結論>
ヌーソロジーは、主観と客観の統合を図る革新的な思考体系であり、物質と意識の関係を深く探求する新しい枠組みを提供します。特に、球精神という概念を通じて、観測者の認識が時空の構造とどのように相互作用するかを明らかにし、物理学と哲学の統合的な理解を促進します。このような視点は、現代の科学や哲学に新しい洞察を提供し、意識と物質の関係についての理解を深めるための強力なフレームワークを提供します。
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ヌーソロジーは哲学と物理を併せ持って、空間をアーキテクトする思考の芸術活動のようになってきた感がある。理想に近づいてきた。独自のジャンルやね。あとはこのアーキテクチャーが意識にどのように変化をもたらしてくるか。そこだね。
12月 20 2024
このままAdSで行くか、それともCFTに乗り換えるか
ヌーソロジーでいう「人間型ゲシュタルトから変換人型ゲシュタルトへの移行」というのは、「AdS空間からCFT空間への移行」と言い換えられそうだ。難解な表現だが、この方が一般への通りがいいかもしれない。存在者の空間から、存在の空間への移行という意味なんだけどね。
⚫︎AdS空間に基づく物理学的宇宙観
現代物理学の多くは「観測者が存在しなくても宇宙は外部に実在し続ける」という客観宇宙観を前提としている。これは、AdS空間に対応する認識構造であり、対象(宇宙や物体)を外部に固定化し、それを独立した存在として把握する枠組みになっている。
⚫︎CFT空間への認識の切り替え
一方、CFT空間の観点では、対象(宇宙や物体)と観測者(意識)は切り離されたものではなく、同一の認識構造の中に統合されている。ここでの主体と客体は「認識の中の役割」として区別されるだけであり、互いに独立した存在ではない。
CFT空間が僕らの意識に浮上してくれば、AdS空間が作り出している言説の多くが、真実とは大きくかけ離れているものであることが分かってくるだろう。
⚫︎その最たるものが、対象の存在確率などといった考え方。信じちゃダメ。
量子力学では、対象(例: 粒子)の位置や状態は「確率的」に記述される。波動関数が位置や運動量などの確率密度を与え、測定によってその確率が「収束する」と解釈される。
この解釈の前提は、観測者が対象の存在そのものを「確率として」捉えるというところにある。AdS空間、つまり対象を外在化する空間での視点では、こうした考え方しかできない。
しかし、CFT空間側からこの現象を見直すと、まったく別の視点が浮かび上がる。
CFT空間側で波動関数を捉えると、そこに示されている確率は、実は「対象の存在確率」などといったものではない。むしろ、観測者がどの位相(視点や認識の角度)から対象を捉えているかという、観測行為のバリエーションを示しているに過ぎない。
ここでいう「位相」とは、観測者が対象をどの方向から、どのような意識の焦点で見ているか、という認識上の立ち位置のことを指す。この立ち位置の違いが波動関数の確率的な表現となって現れているのだ。
つまり、波動関数は観測者の認識の入射角を反映しているだけであり、対象の存在そのものが不確定であるわけではない。
言い換えれば、AdS空間が生み出す「存在確率」という概念は、CFT空間の視点から見ると、観測者の認識プロセスの多様性を確率的に見せているだけの虚像に過ぎないということだ。
CFT空間においては、対象は「主客一致」として認識される。つまり、観測者がどの視点から対象を見ているかにかかわらず、対象はそこに観測者の持続として厳然として存在する。このような理解によって、「存在確率」という虚構は崩れ去り、対象は虚像ではなく、力強い実体として理解されるようになるわけだ。もちろん、観測者自身の精神として。
この波動関数の確率解釈に象徴されるように、AdS空間に閉じ込められた認識では、世界はどこか虚像的で心許ないものとして感じられる。しかし、CFT空間が浮上し、世界を主客一致として捉える認識が開かれると、世界は生き生きとした実在感を持つようになる。
AdSとCFT。どちらの空間で生きるか——この認識の違いは、僕たちのこれからの生き方や人生観にも大きな影響を与えてくることになるだろう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: Ads, CFT, 波動関数, 量子力学