3月 20 2008
時間と別れるための50の方法(2)
●ルシファーからルシフェルへ
観測者が事象と関わると聞くと、まず思い描かれるのが観測者の視線です。目と対象を結ぶ線を普通、僕らは視線と呼ぶわけですが、人間の一般的な空間認識においては観測者としての自分自身をも物体状の存在者として3次元空間の中に投げ込んでいるために、この視線を3次元空間内の一つの線分として概念化してしまいます。目の前にコーヒーカップがある。コーヒーカップと僕との距離は約50cmぐらいかな。。ってな感じで。
しかし、この奥行きとしての50cmの距離は前回も言ったように客観的な空間ではありません。つまり、コーヒーカップが射映像として浮かんでいる平面をx軸、y軸からなる2次元平面の世界だとすれば、コーヒーカップから観測者である「わたし」に向かっている線は3次元の方向としてついつい解釈されてしまいがちです。しかし、時空というものの性質上、そこにはわずかながらも時間的な距離が存在しています。コップという映像の情報がコップから放たれている「光」によってもたらされているのならば、ごくごく正確な意味ではそこに見えているコップは「今、この瞬間」のコップではないわけです。とすれば、視線は必然的に4次元になっていると言わざるを得ません。視線に対するこのような次元解釈は別にヌース特有のトランスフォーマー型ゲシュタルトを持ち出すまでもなく、ごく単純に現行の物理概念にある時空概念を観測者自身の周囲の空間に当てはめてもそうなります。つまり、主観線(奥行き)とは時空としての4次元である、というわけです。
さて、一方の「あそこ」と「あそこ」を結ぶ客観線の方はどうでしょう。この線分はもちろん、視線ではないですね。対象と対象を結んでいる線なわけですから、その線分上には観測者は存在しておらず、そこには「見える光」としての交通網は敷設されてはいません。『光の箱船』で書いた表現を用いれば、この線分上を走っている光線は見えることとは全く関係を持たない「闇の中の光」と言っていいものです。そのような光は見えないわけですから、人間の意識によってただ想像されている光にすぎません。こうした光の速度のことを物理学は秒速30万kmと呼んでいるわけです。そして、その速度の意味が分からないという事態に陥ってしまっている。。前回書いた「懐中電灯から発射された光子が右手側にあるスクリーンに当たったという出来事」は、この意味で「闇の中の光」が経験している出来事であり、この出来事は観測者に目撃されるという一つメタな次元の出来事によって、はじめて、光の中の光へと相転移させられてきます。
ところが困ったことに、物理学的世界観の中では、さきほども言ったように、世界を見つめている観測者自体をも他の物体と同じような単なる時空上の位置として扱ってしまうために、「光の中の光」が顔を出すことは決してありません。哲学の言葉で言えば、実存が無視されているわけですね。ここが哲学者たちが物理学者たちが描く素朴実在論的な世界観をうさん臭く感じている一番のポイントとなっているところです。闇の中の光に対するOCOT情報は次のようなものです。
人間の内面における光のことを有機体と呼びます。有機体とはカタチのない精神のことです(シリウスファイル)。
シリウスの知性が「カタチ」と呼んでいるものとは「無意識構造の顕在化的様態(ヌース理論における「イデア」のことです)」のことを言いますが、OCOT情報によれば、人間の意識にはまだ、このイデアを思考対象として持つ能力が発現してきていません。僕らの自意識の中を調べてみればすぐに分かることですが、人間の意識の思考対象は、物質(形態や色)や音、イメージと言った感官から抽出されてきているいわば感覚的な表象世界のものがほとんどです。物質もまたイメージにすぎないと言ったのはベルクソンですが、その意味で言えば、感覚を通して得た表象、ならびにその属性物で思考はつねに作用しているわけです。
ヌース理論では、僕らが抱いている物質概念のことを「有機体の妄映」と呼びますが、このことの意味は、実際には「光の中の光」として見えていないにも関わらず、あたかもそこに物質が実在しているかのように構成された物質概念の独立性にあります。わたしとは関係なく、世界は物質に満たされている……こうした概念形成は実在性というよりは、あくまでも概念の産物であり、確固とした物質が時空上に存在しているわけではないということです。いや、もっと言えば、時空という物質のグラウンドとなっている場所性自体が概念の産物に過ぎないということなのです。
時空という闇の中に落ち込んで行き場を見失っている秒速30万kmとしての光。こうした光のことを旧約に倣ってルシファーと呼びましょう。僕らはこのルシファーを光の中の光へと召還する時期を迎えつつあります。神に反逆して闇の中へと追放されてしまった、12枚の純白の翼を持つと言われるその美しい天使長は、今や黒い毛に覆われた眼の見えない巨大なコウモリに姿を変えて闇夜の中を飛び回っています。この堕ちた天使長を本来の意味のルシフェル(光を運ぶ天使)として復活させるために,僕らは光が持っている意味を単なる物理的な光から霊的な光の働きへと変換させる必要があります。グノーシス主義者たちのいう「光の救済」に着手する必要があるということです。マリアの受胎、シリウスの力の降臨、創造空間への侵入、そしてアセンション。。。ヌース理論から見れば、これらはすべてこのルシファーからルシフェルへという光の変容の物語でもあるのです。——つづく
5月 10 2008
時間と別れるための50の方法(9)
視野空間は面として開示しているにもかかわらず、その面を外部(他者側)から見ると瞳孔という点状の穴に化けてしまっている――ヌース的思考の跳躍は、この面と点の幾何学的観念の中に見ているもの(主体)と見られているもの(客体)の関係を想定することから始まります。
僕らが空間上に何らかのモノを見るとき、そこにはモノと背景空間の差異があります。いわゆる図(figure)と地(ground)の関係です。知覚心理学が言うように、モノの認識は当然のことながら、この両者の間の差異がなければ起こり得ません。例えば、目の前にライターがあるとして、そのライターは輪郭を持っており、その輪郭は背景空間との境界に生まれていることが分ります。そして、その輪郭がライターという存在者を文字通り、ライターを縁取ることによって、ライターの知覚が起こっている。。。このとき、「図」であるライターと「地」としての背景空間の間には絶対的な差異があります。しかし、目では確認できるものの、この差異を僕らは普段はっきりと意識化することはできていません。というのも、現代的な3次元認識では空間はのっぺりとした平板的なものとして捉えられているので、モノも空間も「3次元空間」や「3次元立体」というように同じ「3次元」という概念で一括りにされ、モノと空間の差異が曖昧になっているからです。
この差異を空間概念の差別化として幾何学的に取り出し、そこに空間の差異の系列を作り出そうと考えているのがヌース理論です。この差異の系列は『人神/アドバンスト・エディション』でも紹介したように、次元観察子という概念によって表されます。これはベルクソン風に言えば、「見せかけに抗して、本性上の差異、いいかえれば実在の分節を見つけだすこと」に当たります。その作業プロセスは文字通りヌース本来の意味である「旋回する知性」によって進められていきますが、最初の分節を見出すためにも、回転に対する想像力が必要です。『人神/アドバンスト・エディション』にも書いたように、モノをただ目の前で回してみればいいのです。
当たり前の話ですが、モノを回すと観測者にはモノだけが回って見えます。モノの背景となっている空間はそのままで動きません。この事実をヌースでは「観察者から放たれた視線という1次元の線分」と「モノから放たれているであろうと思われる1次元の線分」とが全く次元が異にしているからだと考えます。ここでストレートに「モノから放たれている」と書かずに「モノから放たれているであろうと思われる」とわざわざ回りくどい言い方をしたのは、モノから放たれた線分はモノの次元から出ることができないので、それは「地」と「図」の差異を持つ観測者の位置に出ることは不可能だからです。つまり、知覚に達し得ない、見えない、ということ。
下図「●何がモノを見ているのか」を参照して下さい。今、目の前でクルクルとボールが回っているとしましょう。このときこの3次元の立体は上下、左右、前後の様々な見え姿を観察者に露にさせています。しかし、その回転を見ている観測者は回転することもなくただじっと静止しています。観測者からボールに放たれている視線もまた1次元の線分です。このことは、同じ1次元でも視線という線分にはモノの3次元性全体をその一線の中にすべて畳み込む能力があるということを示しています。つまり、僕らが一般に「視点」と呼んでいる視線の出所である一点(これこそ、僕らが自己の位置と呼んでいるもののわけですが)は、モノを規定している空間の3次元回転のすべてを一点に取りまとめた位置として、モノの次元からは超出しているわけです。
では、モノが回転してその表面上の点を次々に違うものにしていくにもかかわらず、視点を視点そのものの場所にしっかりと固定させ落ち着けさせているものとは一体何なのでしょう。単なる3次元空間という概念では、ボール上の一点も視点という一点も同じ点的存在であり、それらに違いはありません。ボールの直径が30cmで観察者がボールの中心から1m離れているとした場合、そこに今度直径1mのボールを持ってくれば、そのボール上の一点と観察者の位置は全く同じ位置と見なされてしまうことでしょう。これは普段、僕らが自分の位置をモノの位置と同等に自分の視点の位置を考えているからです。こうしたモノと同一化した空間で観測者の位置が捉えられてしまうと、意識の理論は極めて奇妙なスタイルを採っていくことになります。一方に世界があって、もう一方に身体という感覚器官が存在し、感覚器官が外部世界を察知し、その情報を脳に送る、といった、あのおなじみの科学的な意識モデルです。ここにはベルクソンのいう実在の分節概念、つまり、ヌースでいう空間の差異の系列が考慮されてないので、のっぺりとした同一性の空間の中で物質の連携システムとして意識の成り立ちを説明していくことになります。しかし、この同一性の中ではいくら理論を精緻化させていったとしても意識のキモに届くことはないでしょう。なぜなら、世界を見ている主体そのものとしての差異が最初から存在していないからです。
僕らが視点と呼んでいる場所はモノの3次元に対して絶対的な差異を含み持っています。で、その差異とは何なのかと言うと、それは視点の起源となっている「視面(知覚正面)」としての視野空間(2次元射影空間)としか言いようがありません。というのも、視点よりも視面の方が先に存在していたのでしょうから。前回の図9に示した交差円錐の図を何度も執拗に思考でなぞってみて下さい。自己においては瞳孔が先にあったのではなく、視野空間が先にあった――そして、この視野空間としての視面こそがわたし本来のわたし(フロイトのいう「幼年時代」)であり、視点は鏡を通じたその反射物として、3次元空間内に投影されたものにすぎません。主体はこの反射物としての視点に視野面である主体そのものを重ね合わせ、自己中心化の位置を形作っているのです。この位置はヌースの観察子の記号でいうと、ψ3-ψ*4という複合位置の範疇になります。これは時間の芽のようなものです。――時間の発生箇所を探し求めて、このシリーズはまだまだつづくよ。
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 1 • Tags: フロイト, ベルクソン, 人類が神を見る日