1月 28 2019
ハイデガー、ドゥルーズ、そしてヌーソロジー
ヌーソロジーは哲学的にはハイデガー=ドゥルーズの思考線をなぞっている。ポイントとなるのはハイデガーのいうphysis(=自然)という概念だ。このphysisは僕らが慣れ親しんでいるnature(=自然)とは全く違ったものだ。natureが造られた自然なら、physisは造り出す自然、生成としての自然を意味する。
ハイデガーはこのphysisについて次のように書いている。
「physicとは発現して、自己を立て直すこと、自己の中に滞在して自己を展開することである。この支配の中に、根源的な統一から分かれ出た静止と運動とが秘められ、また開示されている。この支配は思考の中でまだ統御されないままの制圧的な現-存であって、この現-存の中で現存するものが存在者として現成するのである。だがこの支配は、それが自己を世界として戦い取るとき初めて隠蔽性から歩み出る、つまりギリシア語でいうaletheia(非隠蔽性)が生起する。世界を通して初めて存在者は存在的になる」―形而上学入門p.106
難解な言い回しだけど、これは一言で言うなら、受け取る者から与える者への転回のことを言ってる。「存在者が存在的になる」というのは、自然の由来が自己の中に見え、存在者自身の中に自己があまねく浸透して見えるような状態と考えていい。自己自身が物自体へと生まれ変わるという言い方もできる。
このような形で存在が本質現成した世界では、時間と空間の意味合いも大きく変わる。natureにおいて、時空は存在者の立ち現れの場に過ぎないが、physisにおいて、時空は存在者を現出させる開花作用のようなものへと変わる。ハイデガーはそのような時空をnatureの時空と区別して〈時-空〉と呼んだ。
この辺りは、ドゥルーズの思考線もまったく同じだ。ドゥルーズはハイデガーの存在概念にベルクソンの純粋持続を重ね合わせ、それをそのまま極微の内包空間へと接続させ、そこから、モナド化したこの内包性を〈巻き込み〉と〈繰り広げ〉という理念的ダイナミズムのもとに襞の存在論として展開した。
半ば神秘主義化しかけていたハイデガー哲学に現代科学の様々な物質的知見をアクセスさせ、新たな自然哲学、まさにphysisの命脈を保った内在性としての自然哲学へと発展させようとしたのだ。
ヌーソロジーはこのphysisに内在する根底的輪郭が素粒子構造そのものだと考えている。いつも言ってることだが、物自体の開示は物の根底(素粒子)から為される以外に道はない。物の根底が開かれることによって初めて、ハイデガーの〈時-空〉も露わになる。そのとき世界は相転移を起こすことになろう。
9月 25 2020
ヌースが「奥行き」に至るまでの長い道のり
今度の日曜日のヌースビギナーズラック#6。素粒子の話がテーマなので、『光の箱舟』の共著者である砂子岳彦氏をゲストに呼ぶ予定でしたが、機材の能力不足でSkypeの音量調整が難しいということが分かり、断念しました。誠に申し訳ないデス。
佐藤氏亡き後、専門家でヌーソロジーと同じ方向で素粒子の世界を見ているのは砂子氏だけなので、その考え方を皆さんにも紹介したかった。本当に残念。まぁ、いずれ生出演で呼ぼうと思っていますが。
もともと、「素粒子とは人間の意識構造である」と伝えてきたのはOCOTで、その理解こそがこれからの人間を大きく変えていくと言っていたので、ヌーソロジーにとっては、素粒子物理の基盤となる量子力学の構造は意識の見取り図も同然のものなんだよね。
ところが、この見取り図自体が非常に難解なもので、正規の教育を受けてない人はまず歯が立たない。複素数の行列で表現される数式もさることながら、交換関係とか、演算子とか、考え方が根底から違っていて、一体何をやってるのか概念的にさえつかめないんだよね。
ミクロの世界は僕らの生活している3次元世界とは存在の形式がまるっきり違うってこと。もっと言うと、人間の表象能力の外部にあると言ってもいい。だから、それは量子物理学とは呼ぶものの、もはや物理的対象の世界ではない、とも言えるわけだね。
で、問題はミクロの空間がなんでそんなヘンテコなことになっているのか、ということ。その理解がなければ、量子力学の数学的理解はできたとしても、量子とは何かについては永久に分からない。
僕の場合は、量子力学より先に、OCOTたちの世界観を仕込まれた。それは意識構造を鉱物の結晶のようなカタチとして見てる世界観なんだよね。何で意識の構造が結晶のようなカタチになるかと言うと、そこは時間が流れていない世界だから。本来、カタチは時間のない世界の産物だと言うのがOCOTの弁。
この辺がとてもプラトンっぽいよね。イデアというやつだ。で、垂子やら、垂質やら、精神球やら、聞いたこともない言葉を通したやりとりが始まった。最初はほんとに何一つとして分からなかった。多分、初めてヌーソロジーに出会した人の分からなさより、その百倍くらいはあろうかという分からなさ(笑)
僕の90年代の人生は、ほとんどこの分からなさとの格闘で費やされたと言っても過言じゃないね。寝ても覚めても、自分の内側に入り、無意識のカタチを探し求めて彷徨った。5年ほどしてようやく、カタチのイメージ生まれ始め、そこから今度は物理学の本とのにらめっこが始める(笑)
そして、これがまたサッパリ分からない(笑)。結局、最初は分からないものを分からないものと照合させながら、そこに共通の分かる「何か」はないかという、自分自身が触媒になった感覚で、OCOT情報と量子本とのにらめっこの反復が続いたわけだ。まぁ、これは今でも続いてるけどね。
もちろん、まだすべてが分かったわけじゃないんだけど、内的なカタチの思考から始めたのは正解だったと思う。というのも、数式で表現されている量子が最初から内的なものとして感じられたから。普通は、量子を外的なものとイメージしている人がほとんどだろうから。
で、問題はミクロ世界がどのようなシステムによって人間の内とつながっているのかということ。量子を記述する複素数の形式にそのヒントは隠されているということはすぐに分かったんだけど、その謎が解けるのにも結構、時間がかかった。
この辺りの思考はゼロ年代に入って、ドゥルーズとか、ベルクソンとかメルロ=ポンティとか、哲学系の本を読んだのが良かった。最終的にその接続のイメージは「奥行き・持続・収縮・無限小」というターム群でクリアに浮き上がってきたんだね。
こうやって、物の外部と内部は人間自身を通して「奥行き」で繋がっているという反転の理路が完成したわけ。今ではもう確信に変わってます。
ただ、この確信が主観的確信じゃショーモないので、ミクロの物理法則の事実性と合致させるために、亡き佐藤氏や砂子氏、そしてφさんといった面々と検証作業を続けているわけですね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 02_イベント・レクチャー • 0 • Tags: OCOT情報, イデア, ドゥルーズ, プラトン, ベルクソン, メルロ=ポンティ, 光の箱舟, 奥行き, 素粒子, 量子力学