12月 23 2024
改めて、ヌーソロジーの基本コンセプト
ラカンは現実界は不可能と言っていたけど、ヌーソロジーはCFTの空間認識として入っていきます。存在そのものの世界です。これを見ると、ヌーソロジーになぜ女性が多いのかも分かる気がします。男の世界はまもなく終わりますよ。
——こうして整理してみると、ラカンの「物」に対する捉え方は、単なる心理学的な概念に留まらず、存在論的な深みがすごい。彼が言う「対象a」は、象徴界、想像界、現実界の三つの次元を跨ぐものであり、それが欠如や不可能性を伴うことで、私たちの欲望を形作っているわけだ。
ヌーソロジー的な視点を加えると、この「対象a」はまさにAdS空間(象徴界)、dS空間(想像界)、そしてCFT空間(現実界)の三重構造を重ね合わせたものとして理解できる。ただ、ラカンは「対象a」を不完全性や空虚性の象徴と捉えたのだけど、ヌーソロジーはその空虚性をむしろ可能性の基盤として再定義する。ここがヌーソロジーのブッ飛んでるとこだろう。
これは「存在論的唯物論」と言っていいもので、精神と物質を統合する唯一の思考線になる。
さらにラカンが「物」によって示した三領域的な構造は、ヌーソロジーにおいても非常に重要だ。AdS空間(象徴界)は物理的客観性の基盤を与え、dS空間(想像界)は主観的感覚や内面的な認識を提供し、CFT空間(現実界)はこれらを統合し、新しい次元的理解を可能にする。つまり、「物」とは単なる現実的な対象ではなく、私たちの認識そのものを反映する多層的な存在として再定義され得るということだ。
この図はその意味で、ヌーソロジーの基本コンセプトを端的に表すものとなっている。
みんな、自分の人生や生活について考えることで大変かもしれないけど、ときには、こんな脱-人間的な思考のフィールドに足を踏み入れてみるのも楽しいよ。自分が人間であることを忘れてしまう(笑)。もちろん、俗にいう現実逃避は御法度だけどね。
9月 3 2025
まずは、他者視点化している自分を自覚すること
他者視点化しているから、「存在が物質となって目の前にあ現れている」という感覚が生まれている。つまり、存在が対象化されて、存在者となってしまっているわけだよ。自己視点ではそもそも対象化は起きていないし、存在と自己は一体化している。それが「いつでも今、どこでもここ」という感覚と直結しているわけだよ。
空間認識をAdS空間からCFT空間へ移行させるためには、まずはこの移動感覚を意識に根付かせないとダメ。これは見ているものと見られているものが一対一で対峙する感覚だね。持続の中だから当然そうなる。無数の対象は持続の中では目の前の空間のなかですべて重なり合ってるんだよ。非局所だということ。
非局所的な物と非局所的な身体。この関係がOCOT情報が「力の対化」と呼ぶものになっている。観察子でいうとψ5とψ6の関係。NC図だと右側の球空間と真ん中の球空間の関係にあたる。(3次元射影空間はRP^3)
ラカン的にいうなら、「他者視点化していない」とは一切の去勢を受けていない、つまりは想像界的虚勢も象徴界去勢も受けていない精神の大いなる健康を取り戻すということになるのだが、ラカンはそれは不可能だと言っていた・・・ような。
AIの登場によって自他間で営まれていた言葉とイメージの交換(宇宙的性愛)がもはや意味を失いつつある。言葉を食い尽くしていくべき人間が、言葉に食い尽くされ、その結果、イメージもまた言葉の汚染を受け、言葉の檻から出れなくなっている。自己視点の消滅した世界にはもはや人体さえもなく、人々は言葉の死霊となって無意味を生きる。
NC図を見ると分かると思うが、「自己視点を取り戻す」とは自らの中に生きる永遠を自覚するということを意味する。時間には始まりも終わりもなく、永遠の今として自らを取り巻き、空間もまたすべて一点に集約され、ありとあらゆる記憶を持続の名において物質として折り畳んでいく。自己とは本来そのような存在である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 3次元射影空間, Ads, CFT, OCOT情報, ヌースコンストラクション, ラカン