イシュタルの夢

 最近は会社の帰りに父を病院に見舞いに行くのが日課になっている。早く出してあげたいが、肺の炎症はなかなか快方に向かわない。老いれば自然治癒力も衰える。聞くところによれば、80歳過ぎの肺炎は完治は難しいらしい。病巣が無くならないまま、退院し、また肺炎を再発させる。そうした繰り返しで最後を迎える人も多いという。

 父が入院してまだ10日足らずだか、病室で暮らし始めてからというもの、ボケの進行が確実に早くなっているのが分かる。今日も、わたしの顔を見るなり「よー来たなぁ。昨日、東京から帰ってたと?」と訊いてきた。わたしはこの一週間というもの、毎日、病院に足を運んでいる。父は私のことを兄と間違えているのだ。「お父さん、広宣よ。」と答えると、しばらく、キツネにつままれたような顔をして放心状態になった。そのあと「あー、広宣か。」と照れくさそうに微笑んだ。表情の前と後に何の繋がりもない。笑顔の下にのぞいた紫色の歯茎が老いの悲痛さを感じさせた。「昨日も、来たろうが?」と続けると、また、しばらくポカンとしたあと、「分からん。」と言って、TVのナイター中継に見入っていた。

 老いることは確かに美しくはない。人は自分がいつまでも若いと思いがちだ。特に若いときはそうである。20代のときなど、自分が年を取るとは知ってはいても、想像することなどできない。それは精神と肉体が調和を保っているからだ。健康な人間に病気の辛さが分からないのと同じで、若者には老いるということがイメージできない。しかし、やがて、自分の中にある自己像と、現実の自己像との間に甚だしいギャップを感じるようになってくる。なんだ、この背中のたるみは?誰だ、この鏡に映っている老けた顔は?ってなもんである。「老い」というのは、まさしくその心身乖離の矛盾なのだ。しかし、老いることが必ずしも悲痛さだけに結びつくとは限らない。

老いは福音である。わたしはそう信じたい。魂は重力の中に生まれ落ち、重力の中で落下し続ける。落下とともに魂は幾枚もの衣服をまといその重さを増していく。言葉、知識、財産、地位……ともすれば、その重みで潰される魂もある。しかし、老いは魂の周囲に一つの大気を生み出す。それは魂の保護膜と言っていいかもしれない。この大気は落下の加速度に抗い、ささやかな摩擦を起こす。このときに発せられる熱が、着膨れした衣服を静かに焼き払っていくのだ。知識を失っていくこと、言葉を失っていくこと、記憶を失っていくこと、そして、知覚を失っていくこと。。。衣服は焼かれても魂だけは残る。そして、魂は重力から解放され、無事、冥界の旅を終える。——老いとは、人間が経験する女神イシュタルの目覚めの夢でもあるのだ。