時間と別れるための50の方法(7)

 ようやくMacも復旧。まずは仕事の遅れを取り戻していました。
 今日からまたボチボチ、ブログの方も更新していきたいと思います。

 現在、このブログでは2月に出した『人神』のアドバンスト・エディションの補足をする内容を思いつくまま書いている。その中でもとり分け「人間の内面」と「人間の外面」というヌース用語の基本中の基本とも言える言葉についてより理解を深めてもらうために、身体における前-後という概念について少し掘り下げている。というのも、アドバンスト・エディションにも書いたように、「人間の外面と内面」というヌース特有の概念がそれぞれ身体における「前の空間」と「後ろの空間」に対応していることがようやく分かってきたからだ。

 僕らの意識は普段、3次元空間の中に落ち込んだ位置から空間について思考しているので、「前」と「後ろ」という方向性のトンデモない差異にほとんど気づいていない。おそらく、ヌース理論が今まで次元観察子と呼んできた無意識が形作っている高次の次元構造は、つまるところ、身体における前・後、左-右、上-下という三つの方向性が持つ本質的意味と重ねられて語られていくことになるだろう。自他におけるこれらの三つの方向性の絡み合いが作り出す意識の働きのすべてが見えてくることになれば、それはヌースで言う次元観察子ψ1〜ψ12までのすべてが顕在化したということにおそらく等しい。ということで、とりあえずは『時間と分かれる50の方法………6』で紹介した「後ろ」についての話に戻って、「前」と「後ろ」の、そのトンデモない差異を露わにしていくことにしよう。

 「後ろ」は見えません。「後ろ」には「わたしの身体の後ろ」と「正面に見えている対象の後ろ」という二通りの後ろがありますが、どちらも見えません。この二種類の後ろに共通しているのは、いずれも向かい合う他者側から見た場合、その他者の「前」の範疇の中に収めることができるということです。この見えない「後ろ」を見たいとき僕らが使う道具が鏡です。その意味で鏡というのは他者の「前」の代用品という言い方ができるわけです。ですから、鏡は自分の前方の中に自らの後方を出現させることができます。ということは、鏡というものはその本来が「バックミラー」と呼ばれてしかるべきものであるということです。

 そこで、皆さんも、朝起きて洗面所の鏡の前に立ったときの自分の姿を思い出してみましょう。普段は寝ぼけ眼で見ているから気づきにくいのですが、やっぱり、鏡に写っているのは「後ろ」の世界です。ということは、次のような非常識的な推測が成り立ってきます。つまり——僕は自分の顔が前に付いているとばっかり思っていたのだけど、鏡に映し出されている世界は僕の「後ろ」なんだから、顔は「前」に付いているというより「後ろ」についていると考えなくちゃいけないのではないのか——ちょっと奇妙に聞こえるかもしれませんが、これは、前を見るにしても、後ろを見るにしても、実は視点というか、視線の方向がそれぞれ二つづつあるということを言っています。普通、僕らは文字通り自分の前方向を「前」と呼んでいますが、自分の顔がある場所も「前」のように感じています。というのも、顔と反対側の頭部は「後頭部」と呼ばれ、「後ろ」とされているからです。でも、これってちょっと変です。なぜなら、「前」とは見える世界が存在している場所の方向を差している言葉のはずなのに、自分の顔は見えない世界側に属しているからです。自分の顔が「前」にあると認識している意識は、普通に「前」を「前」と認識している意識とその方向性が完全にひっくり返っているにもかかわらず、人間はその方向性の違いに無頓着で、それらを一緒くたにして混同してしまっているんですね。極端な話、ほんとうは僕らが後頭部と呼んでいるものの方を実は「前」と呼ぶべきであり、顔面は僕の背後世界の方向に存在している対象と考えるべきなんです。

 僕には見えない後ろ側の風景をいつも引き連れているであろう己の顔。この顔は自分自身では実物を決して見ることができず、鏡像を通した想像力でしか捉える術がないのだから、とてもリアルな顔面とは言えません。自分にとっては自分の顔面はあくまでも「仮面」なのです。そう、ペルソナ(persona)です。このペルソナが人間性を養い、パーソナリティー(personality=人格)というものを作り上げて行く土台となります。こで人格と言ってるのは、いわば現象(世界がこうしてあること)に浮上してくるすべての意味の統括者としての自我存在のことを意味しています。

 ですから、僕は半田広宣という仮面を被っており、ここでの語りもまたすべてその仮面による語りです。おそらく、この語りを聞いている皆さんも、すべて仮面-者としての皆さんでしょう。そこで僕はほんとうの顔って何だろうと考えるわけです。仮面じゃないほんとうの顔面は昔風に言えば「面(おもて)」です。時代劇とかで「面を上げぇ~い」と言うでしょ。アレです。「面を上げぇ~い」と言われれば、昔の人だって当然、顔面を上げてしまうことでしょうが、顔面は仮面なのだから、面ではありません。シリウスファイルにこんなやり取りがあります。

 コ : 人間が見ている世界とは何ですか?
 オ : 面です。

 シリウスでは「面(めん)」というのは眼に見える世界そのもののことを言うそうな。。あひゃ?ひょっとして、それって「前」のこと?見えてる世界そのものが僕の素顔ってことなのか?
 そうです。OCOT情報のいう「面」とは、僕が『人神/アドバンスト・エディション』の中で不動の視野空間と呼んだものそのもののことを意味します。。。。——つづく