思形空間と感性空間の相互反転性について―存在の思考のために

今回は、以前紹介した思形空間と感性空間の違いについて、実際にリンゴを見ている状態で説明しておきますね。
 
目の前にリンゴがあります。その周りには空間が広がっています。普通、わたしたちはこの空間の広がりを図1のようなイメージで捉えているのではないかと思います。
 
このとき空間の広がりは自分の方に向かってきているのが分かると思います。この方向性で表現される空間が思形空間です。自分の顔面を意識化させる空間の方向が「人間の内面」ですから、思形空間は「人間の内面」に存在していることになります。次元観察子でいうと、この空間がΨ4に相当しています。
 
一方、感性空間の方は私がリンゴを志向している方の空間です。その空間の様子を図で表すと図2のようになります。Z軸の方向が反転しているのが分かります。こちらはΨ*4です。
 
わたしたちは通常、空間を単に「3次元」と呼んでいますが、思形空間の3次元と感性空間の3次元は同じ3次元空間ではありません。互いに反転関係にあるんですね。
 
実際に思形空間の3次元と感性空間の3次元を重ねられるかどうか、座標軸を回して、試してみるといいでしょう。試すとすぐ分かりますが、ちょうど右手と左手を重ね合わすことができないように、この二つの空間を方向付けている3本の矢印は3次元空間の中では決して重ね合わせることができません。
 
この重ね合わせの不可能性は「物がある空間」と「その物をわたしが見ている空間」とが全く違った空間であることを意味しています。お互いの間には反転の捩れがあるのです。
 
「物を見る」ということが起こるためには、こうした3次元の捩れが必要になるということです。まずは、そのことを意識にしっかりと上げましょう。
 
さて、ヌーソロジーでは ―感性空間は「人間の外面」に方向を持ってる― という言い方をします。「人間の外面」とは、いつも、言っているように、真性の奥行き、つまり、持続空間の領域のことです。「図では潜在化した虚軸(青の破線)」として記しています。
 
感性空間はまだ幅化した奥行きですが、そこから幅を取り去ったものが純粋持続が活動する元止揚空間だと考えるといいと思います。
 
ヌーソロジーがいつも「考えるな、感じろ」ではなくて、「感じろ。そして、考えろ」と言うのは、感性空間さえをも超えて、この純粋持続の空間の中に入るための思考というものがあるからです。
 
感じることを可能にさせているもっと深い空間が、意識には存在しています。持続空間とはそういう場所だと思ってください。そして、この場所は対象から逃れた純粋な思考によって発見していくしかありません。
 
ここから始まるのは、ハイデガー風に言うなら「存在の思考」というものです。この存在の思考こそが、ヌーソロジーがヌース(能動知性)と呼んでいるものの働きだと考えていただければと思います。

記事の補足。
 
思形空間=「あるもの」の空間
感性空間=「いるもの」の空間
感性空間の下に眠る元止揚空間=「なるもの」の空間
 
という整理でいいと思います。
  
自分が世界に「いる」感覚は、
無意識の中に沈む「なる」の世界が与えてくれている。
  
「ある」の世界の方に意識が飲まれていくと、
「いる」感覚は希薄化し、
「いること」の意味を見失ってしまう。
  
「いるもの」は「あるもの」のために生きているのではなく、
「なる」ために生きている。
  
今一度、下図を見ながら、この文章の意味について考えていただければと思います。
  
「いるもの」から「なるもの」を目覚めさせ、「あるもの」の世界に出ることによって、「あるもの」はようやく自分の本当の姿を見せるようになるということ。
 
ヌーソロジーが目指している世界は、そのような「ある」「いる」「なる」が一つの輪となって生きる調和の世界です。