7月 8 2025
人間というものは、どこまでも自分を中心に世界を捉えるものである。自分の目で見、自分の耳で聞き、そして、自分の心で世界を感じ取る。 だが、この単純な事実が、時に忘れられてしまうことがある。自己の視点が他者の視点に取って代わられる瞬間に人はその事実を見失う。ヌーソロジーの語る悲劇は、まさにこの転倒に由来するものである。
人が自らの欲望や意思を他者に映し、それを自分のものとして受け入れてしまう。これは単なる勘違いではなく、現代社会を支える大きな構造の一部となっている。自己の視点を放棄し、他者の視線に追従することによって、我々は己の本質を見失っているのだ。
かつて、人々は自分の生を自分の中に宿していた。土地に根を張り、自然と共に生きることで、自己は自己であることに何の疑いも持たなかった。 しかし、時代が変わり、産業が発展し、資本主義というシステムが登場すると、人は他者の視線を気にし始めた。どう見られているか、どう評価されているか――そんなことばかりに心を砕くようになったのだ。
人間は社会の中で生きる生き物だから、他者との関係が重要になるのは避けられない。しかし、ヌーソロジーが問題にしているのは、単に他者との関係を持つことではない。他者の眼差しによって、自己の根本が揺らいでしまうことだ。
かつての人間は、他者を見つめながらも、その視線を自らの中に吸収し、自己の内で処理していた。しかし、今やそのプロセスは逆転してしまった。他者の視点が自己の中心に居座り、自己の視点はどこかへ追いやられてしまっている。
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NOOS ACADEMEIA
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ヌーソロジーサロン
ヌースコーポレーション
半田広宣(ハンダコウセン)
著書 「奥行きの子どもたち」「人類が神を見る日」「光の箱舟」他
7月 8 2025
他者の眼差しに映る世界
人間というものは、どこまでも自分を中心に世界を捉えるものである。自分の目で見、自分の耳で聞き、そして、自分の心で世界を感じ取る。
だが、この単純な事実が、時に忘れられてしまうことがある。自己の視点が他者の視点に取って代わられる瞬間に人はその事実を見失う。ヌーソロジーの語る悲劇は、まさにこの転倒に由来するものである。
人が自らの欲望や意思を他者に映し、それを自分のものとして受け入れてしまう。これは単なる勘違いではなく、現代社会を支える大きな構造の一部となっている。自己の視点を放棄し、他者の視線に追従することによって、我々は己の本質を見失っているのだ。
かつて、人々は自分の生を自分の中に宿していた。土地に根を張り、自然と共に生きることで、自己は自己であることに何の疑いも持たなかった。
しかし、時代が変わり、産業が発展し、資本主義というシステムが登場すると、人は他者の視線を気にし始めた。どう見られているか、どう評価されているか――そんなことばかりに心を砕くようになったのだ。
人間は社会の中で生きる生き物だから、他者との関係が重要になるのは避けられない。しかし、ヌーソロジーが問題にしているのは、単に他者との関係を持つことではない。他者の眼差しによって、自己の根本が揺らいでしまうことだ。
かつての人間は、他者を見つめながらも、その視線を自らの中に吸収し、自己の内で処理していた。しかし、今やそのプロセスは逆転してしまった。他者の視点が自己の中心に居座り、自己の視点はどこかへ追いやられてしまっている。
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