10月 14 2025
《“見る”という行為の反転へ》その1
私たちは普段、「見る」という行為を当たり前のものとして受け入れている。
目を開ければ、そこに物がある。
対象があって、観察者がいて、そのあいだを光が結んでいる。
まるで世界は、最初からそこに「在る」もののように思われる。
だが本当にそうだろうか?
ヌーソロジーの視点から見れば、
私たちが「見ている」と思っているその視覚には、
ある重大な“転倒”が潜んでいる。
それは、「世界を見る者」と「世界が見えること」を
まるで別々のものとして扱ってしまっていることだ。
人間の意識は、あまりにも長い間、
「自己が主体で、世界は客体である」という前提に支配されてきた。
見る私と、見られる世界。
思考する者と、思考される対象。
そのあいだに置かれた“距離”こそが、意識の基盤だった。
しかしヌーソロジーは、こう問いかける。
本当にその距離は最初からあったのか?
その距離を成立させている“見る”という行為は、誰のものなのか?
答えはこうだ。
「見る者」は、世界から分離した主体ではない。
世界そのものが、見るという形式を通して、自らを顕在化させている。
つまり、
視覚とは主観的行為ではなく、
“世界が自己を立ち上げる運動”そのものなのである。
この見方の反転は、私たちの意識に大きな転機をもたらす。
視覚はもはや「自分が対象を見る」ことではなくなる。
“空間が、空間自身を生きている”という在り方が、
視覚として現れているだけなのだ。
しかし、その視点が他者側へと傾いたとき、
“わたしが世界を見ている”という幻想が現れてしまった。
その幻想に生きている限り、
この”わたし”は他者に従属して生きるしか術がない。
他者化した視点から出ること。
見ることがそのまま存在となる本来の自己の位置を取り戻すこと。
10月 15 2025
《“見る”という行為の反転へ》その2
そのとき、見る者は消える。
だがそれは、自分が失われるということではない。
むしろ、「自我」という形式に回収されていた空間そのものが、
ようやく本来の主体の場として開かれるということなのだ。
見るという行為は、
もはや「目」を通してではない。
それは、空間そのものが、自らに“方向”を与える行為である。
この方向性——ヌーソロジーで言えばψ3(真の奥行き)——は、
自己の意志や認識以前に、空間の奥から滲み出す“意向性”の感覚である。
それは意味でもなく、目的でもない。
ただ「ここから立ち上がる」という、
世界が自己に触れようとする運動の触感である。
空間が、世界を指し示す。
そこには中心はない。
あるのは、方向そのものが中心となって立ち上がる場。
そしてその場の内部で、世界は“見える”という形式で自己を語り出す。
ここでは、見る者と見られるもののあいだの距離は、
すでに空間の構造として統合されている。
「私」が見るのではない。
空間が、“見る”という形式で私を開いているのだ。
このとき、私たちの知覚はひとつの転位を経験する。
世界は「ある」ものではなく、
“見えていること”そのものが存在の事実となる。
それは、言語を超えた地点で、
なおかつ言語を含んでなお、生きた“空間の声”として響いている。
こうして、「視覚」は
単なる知覚の一形式ではなくなる。
それは、世界が自己を再帰的に生成する幾何学的運動そのものであり、
私たちはその運動の内側に巻き込まれて“存在している”のだ。
このような視覚の再定位は、
今日、私たちの意識が直面している閉塞を乗り越える鍵となるだろう。
他者化された空間、言語の監獄、無限に反復される自我像——
そうした「見られる世界」から脱し、
“見る世界そのものになる”ために。
いま、私たちが取り戻さねばならないのは、
世界の奥からやってくる視線そのもの、
“世界の眼差し”としての自己である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0