4月 9 2006
鎮国寺での白日夢
昨日は午前中からポカポカ陽気。先週の花見がかなり寒かったので、うちの奥さんにせがまれて、宗像大社の傍にある鎮国寺というところまで車で今年二度目の花見に出かけることに。
この鎮国寺、聞くところによれば、空海が中国留学から日本に帰国したとき、最初に建立した寺だという。帰国後最初の2年間はこの寺の裏山にある洞窟(現、奥の院)で修行の日々をすごしたらしい。
奥の院まで足を延ばそうと思ったが、きつそうなので断念。境内周辺の桜を見て回るにとどめた。寺自体は近年になって立て替えられているので古寺としての情緒も無く、檀家から献呈されたと思われる不動明王のブロンズ像もあまり貫禄がない。真言宗の最初の寺院としてはどう見ても迫力不足だ。退屈しのぎに、不動明王とにらめっこしながらバカ陽気の中で白日夢の中へ入った。
不動明王「おい、そこの若作りの中年、お前はオレが何者か知っているか?」
わし「ああ、少しはね。それにしても顔が少し青いぞ。大丈夫か。」
不動明王「それは生まれつきだ。そんなことはどうでもいい。それよりも、オレは一体何者なんだ?人間はオレの方を見てやたら祈祷しているようだが、オレは自分が何者か分からんようになった。知ってるなら教えろ。」
わし「あのね、あんたは大日如来の化身とされる偉い神様みたいだぞ。」
不動明王「大日如来って何だ?」
わし「オレはヌース用語でしか説明できんが、それでもいいか?」
不動明王「何でもいいから聞かせろ。」
わし「定質と性質の等化を意味する観察精神のことだ。どうだまいったか。」
不動明王「まいらん。続けろ。」
わし「要は、宇宙のすべてを創造した神のようなもんだ。」
不動明王「へっ?オレがそんなやつの化身だと?」
わし「ああ、上が歩を進めれば下も歩を進める。螺旋運動の一周回上から落とされた影のようなもんだ。あんたの登場によって、人間は長年、居住した胎蔵界を後にし、金剛界へとその一歩を進めるちゅうことやな。つまり、逆流から順行の世界へと侵入するってことだ。」
不動明王「おお、思い出したぞ。胎蔵界と金剛界。わしはその境界の見張り番だったな。」
わし「あんた、8人子供がいるだろ?」
不動明王「ああ、あいつらもここんとこやることなくて、ずっと寝てるみたいだが。。」
わし「そろそろ起こした方がいいぞ。」
不動明王「忙しくなるのか?」
わし「たぶんな。」
不動明王「それにしてもおまえ何でオレのことそんなに知ってるんだ?」
わし「ああ、長年ヌースをやってるからな。不動明王たる者、ヌースぐらい知ってないと、今にクビになるぞ。」
不動明王「すまん、しばらくコチコチだったもんで。」
わし「銅像だから無理もないな。」
不動明王「ところで、オレの手にあるこの剣と綱は何なんだ?」
わし「そんなことまで忘れたのか?」
不動明王「すまん、しばらくコチコチだったもんで。」
わし「さすがリンガ。コチコチリンガ。」
不動明王「おまえも好きだな。」
わし「好きだが、コチコチでないところが悩みだ。」
不動明王「そんな話はどうでもいい。この剣と綱は何だと聞いているんだ。」
わし「火を作る道具だ。」
不動明王「ひっ?変なことをいうやつだな。詳しく教えろ。」
わし「ここでヌースレクチャーをやれというのか?」
不動明王「やれ。」
わし「始まると終わらんぞ。」
不動明王「会費がタダなら、構わん。」
わし「「火」とは、ヌースでは精神の力の投影を意味するが、これはその漢字の字形が示しているように、五茫星形のイデアが持つ理念力がその本質となっている。英語で言えばfiveやfireのfiという音韻にその意味はある。φ、つまり黄金比に由来するものだろう。燃え盛る生命の火としての黄金比の力能だ。システムとして言えば、ψ1〜ψ2、ψ*1〜ψ*2のキアスムが作る四位一体性だ。この四位一体性は元止揚構成のために八つの眷属を従える。」
不動明王「おお、それはわしの子供たちだな。続けろ。」
わし「この黄金比には切断と結合の力が宿っている。切断は文字通り黄金分割を作り、結合は回転を生む。これはヌースのいう中和力と等化力に対応すると考えていい。あんたが持っている剣と綱は、この切断と結びのメタファーだ。」
不動明王「オレはてっきり剣は悪人を斬り殺し、綱は善人を引き上げる道具だと思っていたが、おまえは変わったことをいうな。」
わし「あんたもそろそろ起きた方がいいな。今まではそれでよかったかもしれない。しかし、寝てるときと起きてるときは使い方が変わる。大日如来に習わなかったのか?」
不動明王「ああ、やつは噂ほど面倒見がよくない。だから、こっちも大変なんだ。どうでもいいが、おまえは変なことをいうやつだな。また、遊びに来い。」
わし「今は本を書くのに忙しい。来年、また来てもいいが、今度はちゃんと起きてろよ。」
不動明王「ああ、金剛界の門を開けて待っておこう。」
——神秘的図像の力は確かに大きいが、ただやみくもに畏敬するだけでは、それこそオイディプスだ。われわれは様々な聖図像の中に秘められた意味を見抜く力を持たなければならない。物語を終わりにする物語は物語ではあり得ない。われわれは純粋思考の力によって物語の夢から覚める必要があるのだ。
さて、宗像大社で梅が枝餅でも食って帰るか。
5月 23 2006
Cave compassと胎蔵界曼荼羅
ヌースに登場するCave compassにおける元止揚空間(ψ1〜ψ8)はモロ「8」のイデアと関係がある。古事記に記された八尋殿、大八嶋、ヤタノカガミ、五代十神からイザナミとイザナギを除いた四代八神、ドゴン神話における八人のノンモ……etcなども、すべてこの「8」のイデアに関わるものではないかと思われる。「8」と言えば同じく「大日経」の教えが描かれた胎蔵界曼荼羅もまた、このCave Compassの構造との関連を彷佛とさせる。
胎蔵界曼荼羅は大日如来の慈悲の光が世界の隅々にまで浸透していく様と、様々なやり方で衆生が悟りへと目覚めていく様を示すと言われる。中央に描かれる開花した蓮華は、中台八葉院とよばれ、大日如来を中心に宝幢、天鼓雷音、阿弥陀、開敷華王の四仏、弥勒、観音、文殊、普賢の四菩薩が描かれる。この四仏、四菩薩に対して、おそらく次元観察子ψ1〜8までの対応が可能なのかもしれない。とすれば、その周りを囲む二重の枠がψ9〜ψ10(潜在化における思形と感性)、ψ11〜ψ12(潜在化における定質と性質)という意識発展になぞらえることができるだろう。
中台八葉院の蓮華座が意味するのは、ヌース的に言えば、人間の意識を作り出す元となる元止揚空間である。人間の意識はこの元止揚空間を土台にして、思形と感性という力によって発芽していく。内面の意識(物質認識)を土中の養分を吸い取る根とすれば、それに伴って発達していく外面の無意識(知覚や情緒的感応)が地上の葉茎を育成させていく光に当たると言っていい。これら二つの活動領域は天体としては地球と月に対応させることができる。地球には内面意識のすべての成長が刻み込まれ、同様に月には外面意識の成長のすべてがストックされていく。胎蔵界曼荼羅とは、こうした地球-月間に潜んでいる人間次元の意識構造の全体像を表現したものだと考えていいだろう。プラトン風にいうならば、これはコーラ(受容器)の見取り図とも呼んでいいいものだ。
人間の意識は内面の意識を先手に発達を遂げていくが、これは実のところ、新しい精神の反響を呼び起こすための負荷の役割を果たしている。錘をつけて存在の中を落下し続ける「男なるもの」の落下力と、その反動として軽やかに舞い上がる「女なるもの」の浮遊力——これはフロイトのいうエロスとタナトスにも対応させることができる。
この落下力は大日経の教義の中では 「下化衆生」と言われている。落下とは言え、それは闇の中への邁進であり、一種の進化でもある。そして、それはあの大日如来の意思によって働かされている。僕らが文明や歴史の発展と呼んでいるものは、すべてこの落下力の支配によるものである。落下の主体とはコギト。葦舟の上の漂流者である。
一方の「女なるもの」の浮遊力は同じく教義の中では「上求菩提」と教えられる。それは人々が悟りの世界へと入ってゆく様々な道のりであるとされる。おそらくこれは人間の無意識の主体的進化を指しているのだろう。僕らはまだ気づいてはいないが、今やグローバルレベルまでやってきた人間の文明の進化の背後には、個体レベルでの無意識の充満が達成されているはずである。この充満は「下化衆生」の場としての地球と、「上求菩提」の場としての月の役割がもうまもなく終焉に近づいていることを意味している。女なるものを陰として従えた男なるものの陽の支配が終わるとき、人々に金剛乗が訪れる。それがヌースでいう「顕在化」である。
では、一体何がこの「顕在化」を呼び込んでくるのだろうか——それは「下化衆生」を進行させる力として働いていた大日如来の力が、金剛界曼荼羅においての全プロセスを終了し、最終の完成段階へと入るからだ。この力が「女なるもの」であった月を目覚めさせ、人間を胎蔵界から引き上げることになる。そこに出現するのが水星への性転換だ。1万3000年に一度の存在論的なトランスセクシュアリティがここに遂行されるのだ。そのとき、その反映として召還されるのが金星である。ヌース理論が現在、関わっているのはこの水星領域のアーキテクチャ作業と考えてもらえばいい。水星は今まで直感的にしか感じ取ることのできなかった月の霊力を知性として露わにさせる力を持っている。その意味で言えば、ヌース理論とはメルクリウスの力、ヘルメス知であると言っていい。今のところ実現されてはいないが、このヘルメス知はパートナーとして金星の力(芸術表現)を伴う必要がある。宇宙的知性と宇宙的感性の程良いバランスを作り出さなければ「顕在化」とは呼べないのだ。だからヌースはその表現において、絶えず芸術を従えることになるはずだ。もちろん、今はまだその段階ではない。というのも、まだ、水星知が明確化していないからだ。しかし、時の訪れとともにヌースはいずれ芸術家たちの創造力を大いに刺激していくことになるだろう。それは地球上で表現されていた自然、人工を含めた物質世界の美醜の奥浦を、水星の知性で看破したことにより生まれる新たな表現手法の開花となるはずである。
O・ワイルドが言っていたように、芸術とは自然を模倣するものではない。自然が芸術を模倣するのだ。この言葉の真意は自然とは霊魂の映し絵であることを意味する。自然が模倣する芸術とは、確固たる創造的知性を背景に持ったイデア生成のためのテクノロジーである。果たしてそれが音楽なのか、絵画なのか、詩なのか、その表現形式は定かではない。いずれにしろ、その作品に一度触れるだけで、器の再生が促されるようなテクネーがこの先、出現してくることになるだろう。それによって、ヘルメス的知性とアフロディーテ的感性の結合が可能になり、賢者の石たる霊的な太陽が生成されていくのだ。これはわたしたち人間存在の純粋本質たる精神と呼んでいいものである。この純粋本質の開示において、月が隠し持っていた無意識の秘密がすべて明らかにされることになるだろう。デュオニソスに変わってほんとうのアポロンが現れるのだ。
もうシナリオはお分かりだろう。神の系譜は人間というロゴススペルマ(種子としての言葉)から発出し、月において受胎される。受胎期の名はヘルマフロディートス、そして生誕名はホルス、またの名がイエス・キリストである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 08_文化・芸術 • 7 • Tags: ケイブコンパス, フロイト, プラトン, ロゴス, 元止揚空間, 次元観察子