9月 24 2025
CFTから見たAdS
空間とは、眼差しの詩であり
時間とは、その詩が折り返すリフレインである。
わたしたちは、 その詩の中で、
いつも「今・ここ」から世界を織り直している。
——これはCFTの中に見える空間と時間の語らいの様子です。つまり、空間とは「外にあるもの」ではなく、“見えてしまったもの”を内から詩のように織っていく行為そのものである、ということです。
ところが、この感覚が完全に失われてしまった。
それは、なぜか。
CFTとAdSの関係から見えてくるのは、次のような風景です。
他者の過剰な介入によって、
「自分が創ったもの」から「自分の外にあるもの」へのすり替えが起こっている。
重さが生まれ、
距離が生まれ、
観測という名のレンズが、
すべての主観像を「そこにある」対象として外部へと固定してしまった。
これがAdSにおけるφ(z, x) の働きです。
それによって、
gμν(重力場)の網が張り巡らされ、
像は構造となり、構造は物質となり、
わたしはその影の隅っこへと追いやられてしまった。
これは、
世界が「見る」ことをやめ、
「測る」ことにすべてを預けてしまった時代の記憶、
つまりは、今の私たちの姿なのです。
9月 25 2025
たおやかに、心としての空間へ
たおやかに
心としての空間へと
自らを溶け込ませていくこと。
それは、
語られる前のことばが
そっと息づく場所。
目に映るものすべてが、
ほんとうはまだ、
見られる前の柔らかな震えをたたえている。
空間は、
外に広がる硬い殻ではなく、
内側から編まれはじめる
やさしい繭。
測るのではなく、
抱きしめるように。
分類するのではなく、
滲み込むように。
世界に触れるとは、
その肌ざわりのままに、
自らの眼差しをほどいていくこと。
心が空間となり、
空間が心となる。
その織り目の中に入ることによって、
私たちははじめて
「在る」という
秘密を見出す。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0