12月 7 2017
「もの」の根源的空間としてのSU(2)
4年前に書いた記事。
http://www.noos.ne.jp/cavesyndrome/?p=5501
西田の「物となって見、物となって行ふ」という言葉だけど、純粋思考の本質を一言でズバリ言い当てているよね。
ヌーソロジーも、まさに、この思考線を追いかけている。
それは、まるで泥土の中を匍匐前進していくような微々たる歩みなんだけど、最近、何とか、一つの錆び付いた鉄条網をくぐり抜けた感がある。
土曜日のヌースアトリウムでの「SU(2)の描像」に関する話は、この記事をイントロに使ってみようかな。
というのも、SU(2)(複素2次元空間における回転)という空間概念自体が、思考が「物となって見、物となって行ふ」ための、根源的空間=大地のような気がしてるから。
この大地の描像が生まれてくると、今まで、単に物質の位置的な役割しか持たなかった空間が、永遠の命を宿した流動的生命へと劇的に変化してくるんじゃないかと思ってる。
2013年からあっという間の4年だったけど、この生命は着実に成長してきていると思うよ。




12月 8 2017
新世界
神は内側から世界を創造する。

しかし、人間は外側からしか世界を思考することができない。
そのため、人間が作り出す制作物はすべてが外側からの想像力によるものとなる。
神が世界を創造する方向と人間が文明を創造する方向は真逆であるということ。
もちろん、これは宇宙にとっては予定調和の一環だろう。
しかし、この転倒が行き過ぎるときがやってくる。
鍋の底はいつかは抜けるものなのだ。
光の中に電磁波が混じること。
食べ物の中に添加物が入ること。
元素の中にTRUが加わること。
体内にナノマシンが侵入していくこと……etc。
もちろん、私たちはよかれと思って様々な技術を開発していくわけだが、
時が来れば、それらは、すべて破壊的創造となる。
それもまた予定されていたこと。
価値転換の時が来ている。
内側から世界の風景をイメージできる想像力を持つこと。
『シュタイナー思想とヌーソロジー』は、
その一つの在り方について書いた本だとも言える。
要は、人間ではなく、神と同じ方向で事物を思考できないか、
それを試みているわけだ。
「ヌース」の意味がもともとは神的知性であるのだから、
ヌーソロジー(ヌースの学)を名乗るからには、これは当然のことと言える。
人間につねに外側から思考を強制しているもの。
それが自我の神だ。
自我の神においては、本来は無限小にいる神が、
あたかも無限大にいるかのように錯覚されている。
天にまします我らが神よ——。
ユダヤ-キリスト教的一神。
天津神。
ビッグバンをイメージする巨大な一つの目。
今までは無限小の神に人間が語りかけることは禁じられていた。
内側から世界を思考することは不可能だった。
しかし、すでにゲートは開き始めている。
それによって、空間は幅から奥行きへ、
時間は一瞬の現在から永遠の現在へとその質を変えつつある。
さぁ、
新しい思考を!!
新しい感情を!!
新しい人間を!!
※下画像はhttps://fineartamerica.com/よりお借りしました。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: シュタイナー思想とヌーソロジー