物となって見、物となって行ふ

「物となって見、物となって行ふ」——西田幾多郎の言葉。これは心で見て、心で行うという意味に同じだろうと思う。西田のいう「物」とは、物の中に潜む物そのものの生成力を意味している。僕的には、奥行きの中に持続を感じ取り、その持続の中に自らのいのちを感じることによって、初めて物となって物を見ることができるようになるのだ、と感じている。

西田はベルクソンの純粋持続を連鎖的創造とも呼んでいる。そして、精神の非常に集中したところに創造がある、とも。この「集中」というのは、ベルクソンが「物質とは弛緩であり、精神とは収縮・緊張である」と言っているところから来ている。僕的に言わせてもらうなら、幅で見ているものを奥行きへと移設せよ!!という感じだろうか。幅は奥行き側に回ると一瞬で縮む。

こうした一瞬で縮んでしまう奥行きが、僕には「虚軸」に見えて仕方ないのである。認識視座の移行が虚軸として表現形式を持つということだ。奥行きから一度、時間と空間といったような実数化されたもの外し、純粋にそこを差異化させるということ。ベルクソンは持続を形式化することはなかった。ベルクソンの時代にはまだ道具立てが揃っていなかったのだろう。

ベルクソンの哲学が神秘主義的な生気論として片付けられてしまったのも、持続世界の形式化が不十分だったからだと言える。ベルクソンを現代に復活させたドゥルーズは、そこに「微分化」の概念を持ち込んではいるが、弛緩に対する緊張・収縮がいかにして微分概念と接続するのかがまだまだ曖昧で、何を言っているのかが分かりにくい。

というより、直裁的なイメージに乏しい。たから、ガタリ絡みの「リゾーム」や「器官なき身体」「ノマド」といったような語的センスだけのあまり中身のない概念だけが一人歩きしている(僕はポストモダンの思想があまり好きではないのです)。このままではドゥルーズ哲学も単なるディレッタンティズムの中に埋もれてしまいそうだ。

奥行きから既成の空間も時間も抜き去り、そこに持続の位置を虚軸として仮定すること。そして、現代物理学が見出した内部空間の構造に準拠しながら、内在野の構造を実験的に重ね合わせてみること。この作業は「存在の外部」をさぐるにあたって、極めて意義ある作業ではないかと感じている。

これは、冒頭の西田の「物となって見、物となって行う」に倣って言うならば、「物となって考える」ということになろう。それは言い換えれば、心による心のための思考でもある。心が心を思考するとき、僕は初めて創造が始まると思っている。

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