8月 1 2014
堕落したエーテル体
精神は物質世界においては「回転」として出現してきます。たとえば、モノの回転、観測者の回転、地球の回転など。これらはいずれも精神の空間的表現で、すべて次元階層が違うものなのですが、僕たちはこれらをモノの回転のイメージで一括りにしています。こうした認識の状態を「次元の中和」と呼びます。
精神が作り出している次元のヒエラルキーが全く見えていないということですね。
次元のヒエラルキーとは哲学の言葉でいえば差異の系列(ドゥルーズ)に当たります。時空という延長的な世界は精神が中和させられた世界のことを意味しており、僕たちの意識に同一化を強制している世界だと言えます。
ヌーソロジーがいう「顕在化」とはこの時空という同一性から抜け出している”差異”を思考によって捉えることをいいます。その具体的所作が「反転」だと考えるといいでしょう。
差異の無限系列が同一性の中で従属させられたものが僕たちが物質と呼んでいるものと考えてみましょう。すると、同一性に従属したこれら物質が示す諸差異の中で最も微小なものは僕らは電荷と呼んでいるものに当たります。同一性の世界と差異の世界は完全な反転関係にありますから、電荷の本性とは実のところ同一性それ自体から抜け出すための最も巨大な差異のことでもあるのです。差異化の世界ではこれが最初の差異になります。
電荷には+と−がありますね。これは差異化が二つの相対する方向に向けられて決行されていることを意味してます。それが自己存在と他者存在の起源だと考えるといいでしょう。シュタイナー的に言えばエーテル化の第一段階です。エーテル化の諸段階はその後、磁荷、光子、uクォーク、dクォーク、陽子、中性子………と続いていきます。ゴールは太陽の核融合です。
シュタイナーが電気や電磁場、放射能のことを堕落したエーテル体と呼ぶのは、本来、差異化の方向性に向かって働いている力が、時空側へと反転させられたものとして力を持っているからなのです。
科学的知性は物質のミクロに分け入ることによって、エーテル体を逆さまに利用する術を獲得したということですね。
エーテル体は生命力の本質です。それを逆さまに利用しているわけですから、科学技術が提供してくる力は逆エーテル体の力と呼んでいいのかもしれません。エーテル体がネゲントロピーの本質を担っているとすれば、逆エーテル体はエントロピーを増大する方向にしか働かないでしょう。
OCOT情報はこうしたエントロピー増大の方向性を「融解」と呼びます。——精神が融けている——という意味です。
8月 8 2014
ヌース用語としての「等化」と「中和」のイメージ………1
ヌーソロジーでは等化と中和という概念がとても重要な役割を果たします。これらは簡単にいえば、「統合する能動力」と「統合される受動力」のようなものです。たとえば人は自分の中に「わたし」という意識の統合体を感じ取っています。
しかし、人はこの「わたし」の由来を知りません。こうした「わたし」は「わたし」として統合された受動的な存在ですから、中和の状態にあると考えることができます。
では、この「わたし」を一つの自我へと統合した存在とは一体何ものなのでしょう。それが等化側の力だということになります。
この等化側の力は一般に無意識と呼ばれているものと考えて構いませんが、OCOT情報はズバリ「精神」と呼んでいます。そして、その反対物である中和側の力のことを「付帯質」と名づけています。俗にいう真我と自我の関係のようなものです。
付帯質というのは精神が存在するところに必ず寄り添う影の力のようなものだと考えておけばいいでしょう。さらに、これら精神と付帯質の関係は常にカップルとして存在するものなので、「対に分かれる」という意味で対化とも呼ばれています。
さて、精神は常に対立する二つの力を等化する本能のようなものを持っています。ですから、自分自身と付帯質の関係をも等化したいという欲動を持っています。ここでいう等化は「付帯質を精神に変換していく」ことを意味します。
今まで受動的なものとして働いていた力を能動的なものへと変えていくということです。こうしたメタな等化の働きのことをOCOT情報は「進化の精神」と呼んでいます。2013年以降、始まっているのは、この進化の精神の発出です。付帯質の精神への変換が始まり出したということです。
これは中和側である自我から見れば、今まで潜在的なものとして働いていた無意識の主体が意識化されていくことを意味しますが、これだけだと、従来のポスト構造主義的な思考とあまり変わりがありません。重要なことは、この無意識の意識化が「空間認識の変容」として生起してくるということなのです。
つづきはまた次回。
※下の写真はSaturn’s hexagonと呼ばれるものです。土星とは上に書いた中和の力の本質だとOCOT情報は言います。ヘクサゴンのかたちもまた同じ。中和は人間においては「空虚な時間の形式」として出現してきます。自我とはこの時間の形式としてあらわれていると考えなくてはなりません。意識への時間の表出は精神の力が相殺されていることを意味します。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ヌース用語, 付帯質