6月 10 2014
資本主義の未来
「前は見えるが、後ろは見えない。後ろは想像的なものであり、鏡の中の世界だ」といつも言ってる。時間についてもおそらく同じことが言える。「過去は見えるが、未来は見えない。未来は想像的なものであり、鏡の中の世界だ」。
もし未来が鏡の中の世界だとすれば、過去から未来へと流れていく時間に乗っているかぎり、永久に鏡の中から出られないということになる。ここは「時間は過去から未来にというよりも、むしろ未来から過去に向かって流れている」と考えた方が時間の真実により接近できるのかもしれない。
シュタイナーは確か過去から未来へと流れる時間のことをエーテル的時間、一方、未来から過去へと流れる時間のことをアストラル的時間と呼んでいた。ドゥルーズ的に言えば前者が一般性としての時間、後者が特異性の時間ということにでもなろうか。未来は経験の外にあるので一般化されているが、過去は経験の内にあるので特異的であるといったような意味だ。
問題はやはり過去と未来を分け隔てている「現在」という「あいだ」にあるのだろう。ここには流れとは呼べない中空の穴が空いている。現在は流れるが流れない。こうした現在そのものの性質が中空的なのだ。ここは時間の流れから見れば一瞬だが、「あいだ」自身から見れば永遠となっている。物理学でいうなら時空と複素空間の接点。時空の一点一点には内部空間が張り付いている云々とされるヤツだ。
この過去と未来の間に埋まっている永遠を木村敏のように「祝祭の時間」として考えることは確かに面白い。アストラル的時間に意識を偏向させすぎた人にとっては、祝祭の時間が待ち遠しくてたまらない。それが来るのか来ないのか「アンテ・フェストゥム(祭りの前)」的感覚というやつだ。この手の人たちは主観的時間感覚が強いので持続世界に無意識のうちに触れて、それが浮上してくる真の未来の到来を無意識のうちに感じ取っている。だから、「まもなく人間は意識進化する」とか「アセンションはすでに始まっている」とか言って騒ぎ立ててしまうのだが。。ワシもおそらくその部類だろうか(笑)。
一方、エーテル的時間に意識が偏向している人は現在=「祝祭の時間」は過ぎ去ってしまったものでもう二度と戻ってこないという感覚の中に生きている。こちらは「ポスト・フェストゥム(祭りの後)」的感覚というやつだ。祝祭はもう終わったのさ。意識進化?馬鹿なことを言うな。未来は延々と続いていくんだよ。というように、物理的時間の中に引きこもってしまう人たちの習性とでも言おうか——。
木村敏は「アンテ・フェストゥム(祭りの前)」的感覚が極端化したのが分裂病(統合失調症)で、「ポスト・フェストゥム(祭りの後)」的感覚が極端化したのが躁鬱病だと考えた。
ドゥルーズ=ガタリは資本主義と分裂症の関係を鋭利に分析したが、資本主義が未来を投資や投機という名目によって貨幣で覆い尽くしている現状を考えれば、「資本主義と鬱病」というタイトルのもとにもっと資本主義分析がなされてもいいように思う。エーテル的時間の流れに身を任せて、未来を貨幣で売買することは、それそのものが躁鬱病だ。吉田拓郎ではないが、「祭りの後のむなしさ」が資本主義の原動力となっているのだ(ふるっ 笑)。
躁状態と鬱状態の間で絶えず反復を繰り返す資本主義の欲望。この欲望の力を現在から垂直に切り立つ宇宙的祝祭の時間の方向へと誘導する方法論を何とか発明したいものだ。
6月 16 2014
宇宙の始まりと終わりのお話
ヌーソロジーでは「背中合わせの自己と他者」というイメージが出てくるのだけど、これは4次元における人間の有りようを象徴化したものなんだよね。つまり、4次元世界においては君と僕は背中合わせでくっついたような関係で生きているってこと。
4次元と言っても、いきなりは難しいだろうから、次のように考えていくといいよ。まず、君は3次元の中にはいない。3次元の中にあるのはすべて物質。君や僕の物質的身体は3次元の中にあるけど、それを見ている肝心の精神の位置は3次元世界で言えば、無限遠とも言っていい場所にある。
「無限遠」と言ったからといって、それは決して距離的に遠いという意味じゃない。距離ではもはや表せないところ、次元が違う場所ってな意味なんだね。「無限遠」としたのは幾何学的に把握するためにはそれが極めて有効な概念だからなんだけど。
例えば目の前に直線があるとして、その両端が無限の彼方にまで延びていってるとする。無限だから到達点はない。で、その到達点が実はその線を見ている自分の位置だったとしたら。。そういう考え方でヌーソロジーの基本は成り立っている。直線を見るためには直線に直交する視座が必要。
直線に無限遠点を付け加えると円と同相という幾何学的な考え方があって、この直線の丸まりによって直線は自らを円に変えて、直線の外に出るわけだね。
図で描くとこんな感じ(下図上参照)。目の前の直線に輪っかが接していて、その接点とは反対側の対極点に無限遠点に位置する僕がいるってイメージ。このときの円の直径が奥行きになるけど、これが空間の第四の次元としての虚軸と考えるといいです。
これを実軸と見なしているのが3次元認識だね。他者視線から見た幅の世界で自分をイメージしているからそういうことになっちゃう。でも、それだと観測者は物質としての身体の位置でしかなくなってしまうよね。こうしたイメージは人間をモノとしてしか見てない。最悪でしょ。
で、この無限遠点への出方には二つの方向があって、図で描くとこんな感じ(下図下参照)。この赤丸で示した二つの無限遠点は実はウラとオモテで繋がっている。自己と他者が背中合わせというイメージはここから来ているわけだね。
こうした間身体感覚をおそらく古代の人たちは持っていたんだよね。それがプラトンの『響宴』に出てくる「大昔の人間」のイメージとして表されている。いわゆる「愛の起源」ってやつ。これは古代ローマのヤヌス神と言ってもいいかもしれないね。ヤヌス神というのは、始まりと終わりの神のこと。January=1月の語源にもなっている。
哲学も自己他者問題を深く追求しているのだけど、存在の円環の思考が科学的理性によって剥奪されているものだから、絶対的外部から到来する他者の意味がよく把握できていないんだよね。終わりと始まりの結節としてこの世界があるという見方ができないの。
精神の終わりとしての神=一者は他者の肉体として出現し、一方、精神の始まり側は自己として出現する。そういう関係があるからまた自己の精神は光子として物質の起源に入り込んでいるわけだね。哲学がいうアプリオリは光子に始まる素粒子世界として構成されている。。もちろん他者においての自己からも同じ事が言える。
こうやって、光子から人間の肉体に至るまでの気の遠くなりそう進化を物質ではなく、精神で辿ろうと決心したのがヌーソロジーの作業。裏街道だね。道のりは長いけど、頑張るよ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 無限遠