宇宙の始まりと終わりのお話

ヌーソロジーでは「背中合わせの自己と他者」というイメージが出てくるのだけど、これは4次元における人間の有りようを象徴化したものなんだよね。つまり、4次元世界においては君と僕は背中合わせでくっついたような関係で生きているってこと。

4次元と言っても、いきなりは難しいだろうから、次のように考えていくといいよ。まず、君は3次元の中にはいない。3次元の中にあるのはすべて物質。君や僕の物質的身体は3次元の中にあるけど、それを見ている肝心の精神の位置は3次元世界で言えば、無限遠とも言っていい場所にある。

「無限遠」と言ったからといって、それは決して距離的に遠いという意味じゃない。距離ではもはや表せないところ、次元が違う場所ってな意味なんだね。「無限遠」としたのは幾何学的に把握するためにはそれが極めて有効な概念だからなんだけど。

例えば目の前に直線があるとして、その両端が無限の彼方にまで延びていってるとする。無限だから到達点はない。で、その到達点が実はその線を見ている自分の位置だったとしたら。。そういう考え方でヌーソロジーの基本は成り立っている。直線を見るためには直線に直交する視座が必要。

直線に無限遠点を付け加えると円と同相という幾何学的な考え方があって、この直線の丸まりによって直線は自らを円に変えて、直線の外に出るわけだね。

図で描くとこんな感じ(下図上参照)。目の前の直線に輪っかが接していて、その接点とは反対側の対極点に無限遠点に位置する僕がいるってイメージ。このときの円の直径が奥行きになるけど、これが空間の第四の次元としての虚軸と考えるといいです。

これを実軸と見なしているのが3次元認識だね。他者視線から見た幅の世界で自分をイメージしているからそういうことになっちゃう。でも、それだと観測者は物質としての身体の位置でしかなくなってしまうよね。こうしたイメージは人間をモノとしてしか見てない。最悪でしょ。

で、この無限遠点への出方には二つの方向があって、図で描くとこんな感じ(下図下参照)。この赤丸で示した二つの無限遠点は実はウラとオモテで繋がっている。自己と他者が背中合わせというイメージはここから来ているわけだね。

こうした間身体感覚をおそらく古代の人たちは持っていたんだよね。それがプラトンの『響宴』に出てくる「大昔の人間」のイメージとして表されている。いわゆる「愛の起源」ってやつ。これは古代ローマのヤヌス神と言ってもいいかもしれないね。ヤヌス神というのは、始まりと終わりの神のこと。January=1月の語源にもなっている。

哲学も自己他者問題を深く追求しているのだけど、存在の円環の思考が科学的理性によって剥奪されているものだから、絶対的外部から到来する他者の意味がよく把握できていないんだよね。終わりと始まりの結節としてこの世界があるという見方ができないの。

精神の終わりとしての神=一者は他者の肉体として出現し、一方、精神の始まり側は自己として出現する。そういう関係があるからまた自己の精神は光子として物質の起源に入り込んでいるわけだね。哲学がいうアプリオリは光子に始まる素粒子世界として構成されている。。もちろん他者においての自己からも同じ事が言える。

こうやって、光子から人間の肉体に至るまでの気の遠くなりそう進化を物質ではなく、精神で辿ろうと決心したのがヌーソロジーの作業。裏街道だね。道のりは長いけど、頑張るよ。

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