6月 2 2005
七の機械
今日は夜、NC gensratorの製作現場の方に出かけた。コイル部分以外、基台はほぼ完成。製作に関わってくれた技術者の人たちとNCの夜の美観を長時間楽しんだ。NCの構造は基本的には垂直回転と水平回転の合成された基台とそこに設置されるNCコイルで構成されている。詳しい技術内容は公表できないが、この機械はヌース理論に登場するψ7の観察子構造を電気的な力を利用して顕在化させようという目論みのもと製作しているものだ。その意味で個人的には「七の機械」というニックネームをつけている。
「七の機械」は、首尾よく行けば、ヌース理論の言葉でいう「位置の変換」の意識力の発振をバックアップさせる働きを持つ機械となるはずだ。「位置の変換」とは、ごく単純化して言えば、僕らひとりひとりが真の主体の位置をモノの中に発見し、その位置を他者サイドが作り出した真の主体側と邂逅させていくことをいう。「まもなく、わたしがやってくる。わたしがやってくると、あなたがやってくる。あなたとわたしがやってくると、ほんとうのわたしたちがやってくる。」というわけだ。で、その本当のわたしたちって何よ?てことになるのだが、この「位置の変換」の概念化の作業が本当に有効なものであれば、世界そのものが主体であったということを僕ら全員が身体レベルでごく自然に感覚化できるようになるのではないかと思う。このときの情景を戯画化すれば、あのプラトンが「響宴」の中でアリストファネスに語らせた「愛の起源」の物語の最初の舞台ということになるだろう。
その昔 地球は平らで、
雲は火で出来ていて、
山は空へと伸びていた
なお高くへと
転がる樽のように人は地を這ってた
腕が2組
脚も2組
大きな頭に顔が2つで
周囲がぐるりと見渡せた
読みながら話もできたけど
愛は知らなかった
まだ愛が生まれる前のこと
Hedwig and Angry Inch “Origin of Love”
処女作の「人類が神を見る日」の帯に、まもなく人類は5次元世界に移動する!、という何ともチープでトンデモなコピーが書き添えてあったが、ヌースでいう5次元世界への移動とは、何も銀河の彼方に瞬間移動したり、浄土世界やシャンバラのような、僕らの今の現実から乖離した神々しい場所に移ることを言うのではない。僕ら自身が今まで「もの」として長年つき合ってきたこの地球上の全存在者、いわゆる知覚対象そのものの世界の中へと、僕ら自身が戻っていくことをいうのだ。ニューエイジ好みの表現を使えば「地球になる」ということ。その意味で言えば、2013年がやってこようが、世界は当面、何一つ変わることはない。変わるのは世界を見つめる眼差しである。ものそのものへと回帰していく魂にとっては、そこは銀河も同然の世界に映るだろう。星の精神とモノの精神とは同じ種族である。
「七の機械」は今はまだ、深い深海の中に眠っている。しかし、それは徐々に浮上しながら目覚めのときを待っている。NC generatorのデザインは、そんな深海の青が、青空の青へと移り変わって行くイメージを元に作られている——。
6月 13 2005
月の光の幻想 その2
闇の中の光と光の中の闇における、最初の対立は見ることそのもの中において起こっている。その事件をあえて図式化すると左のようになる。この図は一つのモノを挟んでの自己側の光と他者側の光の在り方を単純な幾何学として示したものだ。見て頂いている通り、左右の円板A、A*は自・他の視野空間を表し、その中心点B、B*は同じく他・自の瞳孔を表す。わたしの視野空間A上に映し出されるあなたの瞳孔Bと、あなたの視野空間A* に映し出されるわたしの瞳孔B*の関係が交合円錐として表されているものと考えてくれればよい。
この図を見てすぐに分かることは、一般に僕らが「三次元」と呼ぶ空間描像の在り方には二つの種類があるということだ。一つは自他互いの瞳孔の認識の交換(B⇄B*)によるもの。もう一つは視野空間に見えている世界そのものの交換(A⇄A*)によるもの。つまり、この図に即して言えば、三次元には点の交換と面の交換による二つの類型があるということになる。当然、点の交換によって想像されている三次元は、見られているもの同士の交換であるから、そこには光は差すことはない。それらはいわば二組の閉じた目だ。一方、面の交換によって想像されている三次元は、見ることそのものとしての光に満たされた二組の見開かれた目の共同作業によるものである。ヌースでは閉じた目の交換によって生まれる領域を次元観察子ψ4(ψ*4)と呼び(ψ*はプサイスターと読みます)、一方の見開かれた目の交換によって生まれる領域を次元観察子ψ3(ψ*3)と呼んでいる。
わたしたちが通常3次元と呼んでいる空間は閉じた目の領域、すなわち、次元観察子のψ4(ψ*4)に当たる。これは、普通、人間の観察位置が「視点」と呼ばれていることからもすぐに察しがつくだろう。あなたの目も、わたしの目も、三次元世界に点状のものとして存在している、そういう見方の認識である。この視点の発生に自我性が覆いかぶさるってくる、というのが20世紀になって出てきた精神分析の知見だ。ラカンのテーゼ「わたしは見られている。わたしこそがタブローである」を思い出してみるといい。「わたし=主体」とは、本来、視野空間そのものであったはずなのだが、いつのまにか他者の眼差しに映る瞳孔へと姿を変え、三次元空間上に点状の存在としてピン止めにされてしまっている。つまり、「わたし」は「見るが故に在る」というよりも「見られるがゆえに在る」存在へと移行させられてしまっているのだ。この移行した質点をラカンは想像的自我の胚芽と見なした。これはフロイト流に言えばナルシス的自我の温床となっているものだ。三次元という水の中に溺れてしまった魚眼たち。闇の中の光、すなわち、シリウスファイルでいうところの「原初精神」の営みがここで行われている。
さて、こうした光の屈折の事件のあらましが見えてくれば、両生類的なものへと自らの眼をサルベージするのもさほど難しいことではなくなるのかもしれない。一つ考えられる方法は、見るが故に在るもの、つまり、視野空間そのものに真の主体の座をまずは明け渡してみてはどうかということ。そして、今度はその視野空間自体を対象として見ているような意識の場所をサーチしてみること。そこに本当の君が隠れているのではないか?………僕はそう感じている。あっ、それともう一つ大事なことを言っておかなくちゃいけない。
今まで、僕らは、物質の世界を見える世界、精神の世界を見えない世界と思って生きてきた。しかし、ここから類推される事実は逆だ。物質はそれが三次元的なものである限り、見えない世界に存在している想像的なものであり、そして、一方の精神の方は見える世界に存在する現実的なものである。ヌースの空間に入るためには、この”あり得ない反転”に関する視力を高めることが必要だ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 8 • Tags: フロイト, ラカン