檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』を読む

檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』を読む。ベルクソン-ドゥルーズと西田哲学の擦り合わせをとても分かりやすく解説している。西田の著書自体を読んでいなので何とも言えないが、ベルクソン-ドゥルーズが深く踏み込んでいない永遠性を通した他者と死に関する捉え方がOCOT情報に極めて近い。

2014年は死の観念を変革していくことに力を注いで行こうと思う。死とは西田のいう「永遠の今」とほとんど大差ないもののように思える。流れ行く時間が生の母胎であるとするなら、死の母胎とは流れることのない時間であり、それは生と密着して今・ここに同時にある。

死を隠蔽するのでもなく、超越化させるのでもなく、生の中に内在するものとして捉えること。そして、その生の内在の方へと眼差しを向けること。他者との出会いが可能となる場所は、まさしく、そうした生に内在する死の場所においてである。

生の場所を直線的時間と見なせば、死の場所とはこうした直線が円環化するところに現れる。奥行きとはこの円環の径を為す物である。西田における純粋経験の場所としての奥行き。生に内在する死は無限の過去から未来という直線上で起こることのすべてを記憶として抱く無底の器のようなものだろう。

「真に生きる」とはこの無底に触れて生きることであり、生命の力もそこから発している。物理学的にはこの円は時間直線上を転がっていく円として表現されるが(ユニタリー発展)、むしろ展開されているのは直線的時間の方である。

この転倒を是正するところに「生に内在する死」が、むしろ真の生として浮上してくるのだろうと思う。「奥行きに主体を見ると」いうことは西田のいう「純粋経験」に通じている。主客未分の連続性としての死の生命がまずあるのだ。そこから、生命は「自己限定」を為すために接線としての直線を繰り出す。

そして、その接点において純粋経験は自己限定を「反省」する。この仕組みを達観することが西田のいう「絶対無の自覚」ということになるのだろう。

檜垣の分析通り、ここにはドゥルーズの〈差異化〉と〈差異化の差異化〉という二段構えの差異化の循環性が息づいている。この循環性は物理学における量子化と第二量子化の手続きと同型対応するものだ。両者を繋ぐメタ知覚を概念として創造すること。そうすれば、世界から「死」という観念は消える。

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