男と女の痕跡、あるいは汝と我の痕跡をめぐって

奥行きというのはラカンの理論でいうなら「失われた対象」のようなものだ。奥行きに幅が入り込んでいる限り、僕たちはモノ(自体)には直接触れることができず、言葉(シニフィアン)によってそれをつかもうともがく以外にない。そうやって、果てのないシニフィアン連鎖が繰り返される。

シニフィアン連鎖——「シニフィアンは、他のシニフィアンに対して主体を代理表象する」——ラカンの有名なテーゼ。シニフィアン(言葉)は必ずしもシニフェ(意味)を表象してるわけじゃない。それは言葉を少しでも話してみれば分かる。言葉を話せばそこには必ず「わたし」という意識が立ち上がっているのが分かる。

言葉は「わたし」を代理表象しているのだ。だから、言葉ではわたしをつかむことなどできない。それでも、言葉はもがき続ける。

そうした言葉がつかもうとしているものこそが「失われた対象」、つまり「奥行き」ではないかと感じている。

その感覚からすると、奥行きにはさまった幅はシニフィアン(言葉)と頑なに結合しているように見える。おそらく、言葉がにじませている意味(シニフェ)とは、真の奥行きに送り返されゆく言葉が垣間みる主体の痕跡、残像のようなものだろう。

こうして、「言葉」と「意味」という二つの痕跡を巡って、グルグルと周回を続けているのが人間の意識というものだと思う。OCOT情報はこのメカニズムをクールにひとことで「調整」と呼ぶ。実にふざけたヤツだ(笑)

人間の過剰なおしゃべりが終焉を迎える時期が近づいている——ヤツはそれを伝えにきたのだと思う。

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