「もの」を蘇らせる場所の思考へ

OCOTのいう「人間型ゲシュタルト」というのは、分かりやすく言うなら「物質」という概念で宇宙を見るものの見方のことと言っていい。別の言い方をするなら、3次元意識と言ってもいいかな。人間は、この3次元という「型」を土台にして知覚や認識を組織化し、この組織化がそのまま低次の自我のあり方に直結している。
 
だから、「自我を乗り越える」ためにはこの人間型ゲシュタルトを解体し、その効力を無効にするしか手立てがないのだけど、ただ解体しただけでは人間は白痴化するしかない。
 
この解体は、川瀬氏が言っていたように、受動的なものと能動的なものの中点に意識が入ったときの力の状態のようなものだろう。受動的なものから免れるという意味では、これは愛すべき白痴化状態とも言え、ノンデュアリティーという今流行りのスピ系の思想の症状もこれに該当しているように思える。OCOT情報にいう「位置の中和」というやつの本性かもしれない。
 
「受動的なもの」から「能動的なもの」への反転の中点に由来するこの白痴化の症状は確かに神の射影のようなものには違いないが、中点は反転の蝶番のようなものに過ぎず、それ自体は力と方向を持つことはできない。つまり、人間型ゲシュタルトを無効にすることはできず、低次の自我の勢力を抑えることはできない。
 
そこで、全く別の新しいゲシュタルト、「能動的なもの」におけるゲシュタルトが必要とされてくるわけだ。このゲシュタルトが出現することによって、能動(創造)-受動(被造)という真の宇宙の二元性というものが見えてくる。OCOTのいう「変換人型ゲシュタルト」の「変換」とは、この能動性への変換のことを意味している。
 
要は、物質が拠って立つ3次元意識という「型」を作り出したより高次の能動的な場の「型」へと意識を変換するということ。そういうことを言っている。
 
このあたりは日本の古典芸能と同じで、とにかく「型」が重要視されるのだ。内容は後から付いてくる。まずはその型を見出し、その型を習得しなくてはならない。型の中にすでに技芸の精神というものが表現されているということだ。
 
この変換人型ゲシュタルトというやつは「魂の鋳型」と言っていいようなもので、この型が見えてきてこそ、初めて、魂の内実というものを受容する用意が意識に整う。それは、人間が3次元という型において表象を確かなものにしているのと同じだ。内容物の背景には「型」が必要なのだ。
 
この魂の「型」、もしくは「場所」のことを、古代の日本人は「もの」と呼んでいたのではないかと強く感じている。「ものごころ」「もののふ」「ものおもひ」「ものさみしさ」「もののけ」「ものがたり」と言ったときの「もの」だ。つまり、古代における「もの」とは、物質や3次元が生まれ出てくる母胎のような場所ではないかということだ。
 
だから、世界にはまず「もの」があり、そこから「こと」が起こり、その後に3次元や時間や物質がやってくる、というのが正しいのではないかと思う。現在の人間においては、この順序が逆転し、まず、3次元や時間があって、そこに物質があり、そして「こと」が起こると考えている。まさに倒錯の極みをいっている。
 
それもこれも、「もの」がどこかへ消え去っているからだ。
 
山本哲士氏の本を何冊か読んで感じ出したのは、実は、日本語の精神というものが未だにこの「もの」の場を巡って生きているということだ。つまり、日本語は宇宙の母胎にしっかりと根付いている。この母胎のことをOCOTは「ヒト」と呼んでいる。
 
時代を「もの」の時代へと反転させていく責務が日本語をしゃべっている日本人にはある。わたしたちはこれから、この「もの」を意識に浮上させるための「型」を作っていく方向へと文明の舵取りをする必要がある。ノンデュアルなどといった「疲弊した西洋の東洋への郷愁」なんかに止まっているわけにはいかない。日本語がそれを許さない(笑)
 
「もの」の精神が息づく日本は、実は東洋でも西洋でもない。原子洋だ(ヌース用語の「元止揚」をかけたシャレね^^)
 
ヌーソロジーが提唱する複素空間認識とは、この「もの」の場所の「型」を思考によって想起させるための、ポスト量子論的アプローチと言っていいだろう。

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