「嘘の鏡」についての補足

前記事について、もう少しイメージを広げられるように仏教(密教)的な説明を加えておくね。自己側のみについてだけど。。
 
転換位置(対象の外部の自他がいる場所)から見ると変換位置(対象の内部の自他がいる場所)の方は、すべての対象の内部に偏在していると考えていい。これは空海の『即身成仏義』にある「重々帝網なるを即身となす」のイメージに近い。―2008年『人類が神を見る日アドバンスト・エディション』の記述内容より。
 
「即身成仏」と聞いて、お寺の中でミイラ化しているお坊さんなんかをイメージしちゃアカンよ。それはバリバリ、ニンゲシ(人間型ゲシュタルト:笑)。「即身成仏」というのは奥行きの純粋持続感覚がまさにそれではないかなと感じてる。
 
その感覚を強めていくために、具体的な構造概念が必要となるんだね。そのうち、こうした空間認識が力を持ってくれば、転換位置感覚と変換位置感覚の主従関係が逆転していくことになる。
 
要は肉身のまま即時に成仏していくということだね。しかし、それは決して世界から消え去るということじゃないのね。世俗化した仏教はこのへんの話をうやむやで終わらせてしまうから、ついついモヤモヤが募るんだけど、まだまだ先があるんだよね。っつーか、ここからが実体の世界の始まりなんだよね。
  
ちなみに、このビジョンは「後ろの正面だあれ」の話でもあるし、カタカムナの「アマヤドルマリ」の話でもあるし、プラトンの「背中合わせの人間」の話でもあるし、ドゴン神話の「天上の二人のノンモ」の話でもあるし、十種神宝の「ヘツカガミとオキツカガミ」の話でもある。。。挙げるとキリがない。
 
大事なことは、こうしたイメージはすべて”素粒子世界の構造”になっているということ。ここがとても重要。そして、ここにはまだまだ続きがある。その世界を探査していくのがヌーソロジーだと思うといいよ。

重々帝網なるを即身となす