古神道の世界はシャーマニックというよりイデアリスティック?

古神道というのは一般に古代日本人のアニミズム・シャーマニズム信仰として捉えられることが多いんだけど、実はその背景には極めてイデアリスティックなシステムが隠されていたのではないかと感じている。以前紹介した『十種神宝』なんかはその代表。こうしたイデア的側面に言及する研究者が少ないのがほんとに残念。
 
イデアと聞くとすぐプラトンが思い浮かぶかもしれないけど、ここで言っている「イデアリスティクなシステム」とは存在者が存在者であることを可能にしているもの、あるいはそれらを根拠づけているものと言ったような意味だね。物質世界をあらしめている存在の力の体系のようなもの。
 
それを持続空間の幾何学的構造として思考し続けているのがヌーソロジーでもあるわけだけど、その視点から見ると、十種神宝で表現されているそれぞれの形象はまさにその幾何学を象徴化したもののように見えてならないんだよね。デタラメにこうした形を取っているわけではない、ということ。下図上参照。
 
たとえば以前取り上げたオキツカガミとヘツカガミ(最初の上二つの図)。オキツカガミは開いているけど、ヘツカガミは閉じてるでしょ。オキツカガミは他者の目に映る世界。ヘツカガミは自己の目に映る世界。これがまさに時空と内部空間(素粒子の空間)の対応を象徴化している感じがしてる。
 
持続空間の言い出しっぺのベルクソンはその構造については弛緩と緊張という二つの軸に分けて考えるぐらいしかできなかったのね。弛緩が延長的時間や空間、緊張(収縮)が持続本来の時間を作るといった感じで。でも、十種神宝として示してある象徴図像は僕から見ると、持続構造の転変を表現しているように見えて仕方ないんだよね。
 
この図像の由来が分からないと何ともいえないところだけど、ひょっとすると古代日本人の精神性って本当は極めてイデア的だったんじゃないの。僕がカタカムナなんかに惹かれているのもそういう部分かな。
 
ちなみにヌーソロジーが考えるオキツカガミの空間とヘツカガミの空間は、光速度を「奥行き」と見た場合、時空(ミンコフスキー空間)と状態空間(単位球体)のような関係になる。後ろ=オキツカガミに映された空間は開いて、前=ヘツカガミに映された空間は閉じているのが分かるよね。見られる空間と見る空間は全く別物でバイスペイシアルな関係にあるということ。下図下参照。ただし、空間のz軸はct軸に重なっている。
 
ベルクソンは反転が見えていなかったんだね。だから、これらの関係を弛緩と緊張というイメージでしか表現できなかった。反転が見えれば、この図のように物理学ともうまく接続し、持続空間と延長空間の関係をイデア的知性の運動として理解していくことが可能になってくる。その文脈で見ていくと、十種神宝の全象徴はあたかもそのディレクション図のように構成されていってるのが分かってくる。
 
人間が時空と呼んでいるものがオキツカガミ(他者の視野空間)によって映された受動的世界でしかないということがこの図からもある程度は想像することができてくるのではないかと思う。君も日本人なら、このバイスペイシアル感覚を浮上させていこう!!

十種神宝
ミンコフスキー空間