アヌビスの秤の浮上

表象は時間の継起や空間の移動とともに変化していく。その変化を観察する「わたし」の奥底には一切変化しない不変性が眠っている。それが純粋持続というものだ。持続と表象の関係は絵巻物とその挿絵や文字との関係に似ている。その形式は実際の空間上に目撃されており、物理学はそれを波動関数と呼ぶ。
 
時間と空間をパラメータとして使用するしかない物理学の表現では、波動関数から時間(エネルギー)や空間(運動量)を引っ張り出してくる以外にないのだが、ここで実際に起こっていることは真逆であり、延長的な時間と空間は絵巻物としての素粒子に絶えず巻き取られていると考えるべきだ(精神への潜在的な変換が起きているということ)——下図参照。
 
バイスペイシャル認識で言うなら、奥行き(知覚=複素空間=持続)は幅(事物=時空=延長)を常に自身の無底性の中に巻き込んでいるのである。それがわたしたちが経験や記憶と呼んでいるもののことと考えるといい。
 
人間には明らかに二つの類型が存在する。これは魂の二つの領域と言ってもいいのだが、一つは、常に〈我—それ〉というレンズを通し、世界を対象としてしか考えない者たちと、もう一つは、〈我—汝〉というレンズを通して、世界を倫理の化身と見なす者たち、この二つの類型である。
 
もちろん、後者は圧倒的マイノリティだ。〈我—それ〉で世界を見るマジョリティの方はAIの侵攻と共に、おそらく「我」が希薄化していき、「それ」のみの生き物としてゾンビ化していく。素粒子を「それ」と見るか、「我」と「汝」と見るかによって、両者の方向性が真っ二つに引き裂かれ始めるのだ。
 
いや、正確に言うなら、人間個々の中でどちらの類型を主とするかということなのだが——。
 
OCOT情報は「人間の意識進化とは生きながらにして死後の世界に入ること」と明言していたが、「生きながらにして死後の世界の中に入る」ことは、同時に、生きながらにしてアヌビスの秤を経験するということでもあるのだろう。

波動関数の空間微分と時間微分