汝、「いる」ものとしての自分を忘れるなかれ

「あるもの」の背後には「いるもの」が働いていて、「いるもの」の背後には「なるもの」が働いていて、そして、「なるもの」のさらなる背後で、「あらしめるもの」と「いらしめるもの」が働いている。このルートを空間の中に見出していくこと。まだ僕らは「あるもの」の中でしか世界を見ていない。
  
「あるもの」の中でしか世界を見ない―とは、外の世界のことと考えていい。外の世界は「いるもの」が存在しなければ、写真のような瞬間の世界にすぎない。一秒前は「いるもの」の記憶の中にあるのであって、「ある」ところにあるんじゃない。まずはそれに気づくこと。「ある世界」など存在しない。
  
「ある世界」とは、「あらしめるもの」が、世界をあたかも「ある」かのように見せかけているだけの世界だ。この「あらしめるもの」の正体が「構造としての他者」だと考えるといい。
 
他者-構造に意識が絡めとられると、存在は物の見事に裏返される。それが今の人間全般の意識の在り方だ。
 
他者-構造は「我の視線をなぞって世界を見よ」と号令をかけ、それに聴き従った自己たちは、架空の広がりを意識に作り出してしまった。幅支配の世界はそうやって、自然史の中に訪れてきたのだ。
  
それでも、私たちの中には幅支配に抗おうとする衝動が、それこそ、自然史の未来のためにセットされている。それが「いる」という感覚だと考えよう―今、私は、ここに、います―
 
「いる」ものには「なる」ものたちの声が微かに聞こえている。そしてその声に聴き従うことが生の充実だと確信している。
  
汝、「いる」ものとしての自分を忘れるなかれ。
 
「なる」ものの世界への扉は開きつつあるのだから。
  
  
今週1月25日(土)のNOOS LECTURE 2019 vol.5 in Fukuokaは映画「2001年宇宙の旅」がテーマですが、この「ある・いる・なる」の三位一体の話を絡めながら、色々な話をしようと思っています。福岡近辺の方で、ヌーソロジーに興味のある方は是非、おいでください。
 
https://noos-academeia.shop/event_lec2019_vol5_fukuoka/
 

下画像はhttps://tenki.jp/suppl/y_kogen/2019/06/02/29132.htmlよりお借りしました。