10月 17 2022
もっとダイナミックな思考を持とう!!
私たちは経験的なものを通して遠い過去をもイメージする。たとえば、人間がいなかった頃の世界を、私たちは人間の経験的意識を通して想像してしまう。しかし、それはあくまでも意識経験の結果を通した描像であって、人間以前の風景にはほど遠い。その意味で、ビッグバン宇宙や進化論などいった科学的世界観が作り出した過去の物語は虚構のイマージュで覆い尽くされている。
このことはベルクソンが言う「実在性と可能性」と「現実性と潜在性」の関係によく似ている。可能性の実在化の中で生命が進化してきたと考えることと、潜在性の現実化の中で生命が進化してきたと考えることはまったく違うものだ。前者には差異はなく、後者には差異がある。単なる生物化学の地平では、この差異は見えない。
この差異は時間的には持続の中で、空間的には奥行きの中で活動している。持続と直線的時間という時間の二つのタイプと、奥行きと幅という空間の二つのタイプ、これらが互いにいかに根源的な相補性であるか、私たちはもっと知る必要がある。量子力学に登場する複素平面が表現している実軸と虚軸とは、後者の相補性の数学的表現である。
この幅と奥行きとの差異は、同時に、空間に露出した自己と他者の存在論的差異のことでもあるだろう。自己が奥行きを持つ者としてこうして出現しているということは、自己とは実在に対する差異を持つ存在だということだ。そして、自己はこの差異の中に潜む潜在性を現実化していく力を持っている。
自己が実在に対する差異だということは、自己は時空からハミ出ている存在だということだ。まずはこのことに気づくことが、霊的個体化の世界への入口となる。
知覚・記憶・クオリア等、持続ベースの意識と、言語・記録・数量計算等、延長ベースの意識の場を明確に区別して考えよう。前者はヌーソロジーでいう人間の外面、後者は人間の内面の産物である。
自己存在のそのハミ出しの領域が物理学では複素空間として表現されているのだと考えるといい。〈わたし〉に最も身近なはずの自分の精神の姿が時空上では素粒子として記述されているということ。そして、多くの人がその難解な表現形式のために自己自身を敬遠してしまっているということ。それが今現在、人類に起きていることだ。これは、ある意味、悲劇だ。
物理学では複素空間から時空が生まれていると考えることができる。これは、ベルクソン風に言うなら、潜在的なものから現実化が生じていることを意味している。つまり、時空・物質という私たちが実在的と考えているものも、本当は精神の一つの表現として現実化しているに過ぎない。実在とは現実化されたもののごく一部に過ぎないのだ。
少し考えればすぐに分かる。実在には瞬間しかない-このことを今一度、自らの感覚に叩き込まないといけない。実在をあたかも一つの絵巻物のようにして見せているのは、潜在性として生きている私たちの精神の方なのである。
デカルトの「我思うゆえに、我あり」の〈ある我〉と〈思う我〉の違いも、この実在としての”我”と、潜在的な領域から実在を生み出した”我”との違いに由来している。いわゆる非本来的自己と本来的自己の違いだ。つまり、自己は差異を挟んで上位と下位に分裂したところに自己のシステムを作っているということ。これも、まもなく多くの人に分かってくるだろう。
脳をいくら調べても、自己の由来は決して見えてはこない。自己の生成は宇宙全体におけるトポロジー運動の産出物のようなものであり、局所的な電気信号の産物などではないということだ。宇宙全体を一気に回転させているこのような機構が素粒子だと考えないとダメだ。極大は極小に射影されているのである。
とにかく、ここで言いたかったことは、私たちは自分が考えている以上に、はるかに巨大な存在だということ。近代理性の思考に変に影響を受けることなく、自由にのびのびと思考の羽を広げよう。
私たちは飛べるのだから。
11月 4 2022
くたばれ、トランスヒューマニズム!!(笑)
神尾先生が主催しているIEMJでもお世話になった生命システム研究所の根本先生の講義。ヌーソロジー研究所の研究動画でも紹介した「意識のハードプロブレム」について詳しく解説されています。最後は唯物論批判で終わっていますが、まったく的を射た議論だと思いました。
根本先生の講義を聴いて改めて思ったのは、私たちが唯物論的思考を乗り越えるためには、〈見る-見られる〉という経験の差異として現存している空間の区分を知性に上げなければいけないということ。この空間は4次元なので、正確には時間における「持続」と「通俗的時間」の区分に当たります。単純に言えば、これは身体における前と後の区分です。
唯物論は認識的に言えば、意識が対象意識に支配されていることによって生じているもので、この対象意識は〈見られる空間〉の中で生じているものです。いわゆる時空ですね。一方、〈見る空間〉である「前」としての持続空間は、実際は、そのような時空の一点一点に張り付いている内部空間になっており、現象的には、この内部空間が根本先生の言うところの「高次の空間構造」を作っています。
そして、この内部空間こそが物理学は素粒子(7次元の余剰次元)と呼んでいるものです。時空サイドから見れば、もちろん素粒子は極小の存在のように見えますが、その実質は私たちの「前」としての4次元の収縮=射影の性質にあります。実際、私たちの視野空間にはいかなる厚みもありません。要は、知覚的現実に即して世界を見ることが必要なわけです。
こうした「前」と「後ろ」の空間的差異が知性に上がってくるなら、私たちは、もはや物質を対象として見ることはできなくなってきます。というのも、この「前」が物質の土台である素粒子として物質の内部に入り込んでいるからです。言うまでもなく、この「前」とは持続としての精神のことです。魂と言っても構いません。シュタイナーの言い方を借りるなら、エーテル空間と言ってもいいでしょう。
物質ではなく空間を見ましょう。物質の本質はこうした4次元を土台にした高次の空間構造から成っています。そこでの唯物論は、もはや唯心論と何ら変わるものではありません。ヌーソロジーが言う「物質と精神の等化」(主客一致の認識)とは、そのような高次の空間認識とともにやってきます。
複雑な理論など要らないということですね。見えるがまま、あるがまま、そして、欲を言えば自己の存在感覚のまま、空間とともに自らが空間となって思考すればいいだけです。そうすれば、そこには必然的に高次の空間世界が立ち上がってきます。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: シュタイナー, 唯物論, 素粒子