5月 16 2014
天使たちの出現を待ち望んで
グノーシス的思考のみが本来、思考と呼べるものだと思っているのだけど、人間の歴史においてここまでこの思考の系譜が隠蔽され、粉々に砕け散ってしまっているのは何故なのだろうといつも思う。
グノーシスに想いを馳せる者はいつの時代にも異端の烙印を押され、ときに狂人と呼ばれる。しかし正気であることがもし無自覚に法を信じる者のことを指すのだとすれば、正気には思考する力などない。進入禁止の標識に素直に従う限り、標識の向こうを知ることは永遠にできないということ。
グノーシスというのは光の二項論理における無限の展開とも言える。一方に光の贈与があり、他方に光の受容がある。光の受容者はいかにして光の贈与者へと生成していくことができるのか、これがグノーシス的思考が見つめつづけている問題だ。
受容者としての光とは当然のことながら「受肉したロゴス」としての物質的肉体のことを言うのだろうが、ここにはロゴスの完成点と肉体という開始点が重なり合って存在している。キリスト教徒の言う「インマヌエル(われら神と共にいる)」もまたこの重合を根拠としているのだろう。
同じ場所を占める神と人。しかし、その存在の在り方は当然のことながら大きく違っている。それはたぶんデカルトがいう思う我とある我以上に違っている。グノーシスの思考はこの同じ場所を占めながら遥か無限の彼方に消え去ってしまった神との距離を意識するところから始まる。
そこに距離が現れるからには、そこには媒介がなくてはならない。その媒介者たちが聖霊と呼ばれたり天使と呼ばれたりするわけだ。だから、聖霊や天使は神と人を媒介する流動のロゴスに関わる。グノーシスはこの流動性を巡って思考するのだ。
プラトン的に言えば、この存在のアイオーン的円環を巡っての忘却と想起(アナムネーシス)。ルーリアカバラ的に言えばこの生命の樹を巡っての容器の破壊と再生。いずれもグノーシスの表現形式である。
こうした思考を持つ者たちを、異端者や狂人へ仕立て上げ、ときに抹殺までしてきた残忍な精神性を僕ら現代人もまた多かれ少なかれ受け継いできているということ。また、それが人間が正気と呼ぶものの体制であり続けてきたということ。このことを今一度、自覚する必要があるのではないかと思う。
1月 15 2016
独身者は果たして銀河の花嫁をゲットできるのかーーDAIGOと北川景子の結婚に触発されて(笑)
冥王星の役割とは天王星的なものと海王星的なものの差異を乗り越えるところにあると思ってる。言って見れば、存在における父性原理と母性原理を合体させることだ。これは神さまの精子(ロゴス)を神さまが恋い焦がれている人間という場所(コーラ)に神さま自身が送り届けることにほかならない。
ロゴスは当然、男っぽいのだけど、コーラは女の場所のことでもあるのだから、そこに流れ込んできたロゴスに女なるものは戸惑いながらも反応する。この戸惑いの中で変質してくるロゴスが冥王星の力だと思うといい。この力は一見、男っぽく見えるのだが、実はすでに女の体液の中に浸かっている。その意味では、冥王星の力はある種、ユニセックス的なものなのだ。
ヌーソロジーは物理学とか哲学といった、言って見れば男のロゴスをギラギラと照りつかせた部分もあるのだけど、きっちりと存在のヴァギナを狙ってそのロゴスを流し込んでいる。存在のヴァギナってのは奥行きのこと。だから、それは子宮を捉えているわけだ。
だから、女の本能であるマテリアル欲求(産出する欲望)に届くロゴスになっているのかもしれない。「わけがわからないのだけど、なんか面白い」と言って、女性たちがレクチャーに多く集まってくれるのも、たぶん、存在の子宮として働く女なるものの原理がそれを直観してくれているからなんだろう。
この思考のユニセックス感というのを大事にしたいといつも思っている。多くの人は思考のタイプを理数系と文系に分けるけど、女なるものの思考というのはそういった分類とはたぶん全く違ったものだ。それは自然の生産力の本質なのだから、はちきれんばかりのエロスで充満している。理系と文系の思考がシームレスに融合したところにしかこのエロスは発動しない。
受精卵をたった十月十日で胎児にまで成長させていくその調和と美の力の流動性の中にはおそらくなんの戸惑いも存在しちゃいないだろう。その力と同じものが、宇宙全体を貫いて生命として生きている。
創造における根源の場とはドゥルーズ的に言えば、延長(物質世界)と持続(心の世界)の接触の位置である。現代物理学はそれを素粒子に見出した。この場では、常に能動的なものと受動的なものとが、表現することと表現されることの主導権をめぐって互いの力を競い合っている。言い換えれば、そこには、人間を超え出ていくのか、それとも人間に止まるのかという、人間の意志の逡巡が起こっている――。
いや、「競い合う」というより「共存し合っている」といった方がいいのかもしれない。「共存」というからには、それらは一つの半透膜のようなものを境にして互いを交換し合っているとも言い換えることができる。その様子を現代物理学は〈x,p〉=xp−px=iℏという位置と運動量の交換関係として提出してきている。位置xを物質世界、運動量pを心の世界と考えるといい。iは虚数単位で、ℏは量子力学において最も重要な定数とされる数のことだ。
物質と精神の間を遮っている半透膜を意味するこの「iℏ」とはわたしたちの純粋知覚量のようなものと考えるといいだろう。瞬間における世界の見えのようなものだ。だから、これは「見る」ということが起きている純粋な視野膜のようなものとも言える。あのデュシャンがアンフラマンス(超薄膜)と呼んだものに等しい。独身者と銀河の花嫁とを遮る微細な膜だ。
延長としての奥行きを持続としての奥行きへと切り替えるためには、この微細な膜を破らなくてはいけない。この膜に触れることのできる思考は、およそ存在するあらゆる思考の中でも最も簡素なものである必要がある。それはその思考が、宇宙の始まりの思考、グノーシス的に言うなら、最初の思考(プローテンノイア)であるからにほかならない。
このプローテンノイアの力によって、無限大としての男の力は、無限小という女のもとに舞い降りることができるのだ。
おいで、景子。今夜は眠らせないよ。(⌒▽⌒)
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: コーラ, ロゴス