5月 17 2016
受肉したロゴスと切断者としてのロゴス
ヌーソロジーは「見られている空間」と「見ている空間」の差異を指摘し、前者から後者への反転を執拗に促しているわけだが、これはキリスト教的に言うなら「受肉したロゴス」から「切断者としてのロゴス」への質的変容を迫っていると言い換えてもよい。
人間の肉体は創造空間においては創造の完成と始源の結節のようなものとしてある。イエス・キリストが「受肉したロゴス」と呼ばれるのも、本来、人間の肉体自体が創造的知性のロゴスのかたまりのようなものだからだと考えるといい。物質化は「見られる」という受動性先行の中において行われていく。
この受肉したロゴスが受肉させるロゴスへと変わる、つまり、完成が始源へと相転移を起こすことをクリスチャンたちは救済と呼んできた。
―父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今御前にわたしを輝かせて下さい―
< ヨハネの福音書第17章 >
オメガを新しいアルファへと変えること。
ここに出現するのが切断者としてのロゴスと考えるといい。ドゥルーズなんかが仕切りに言っている「差異」という言葉もこうしたロゴスの突然変異体のことを意味している。「差異とは所与がそれによって与えられる当のもの」、つまり、与えられているものを与えているものを見出せ、ということなのだ。
人間が言葉を持って文明と複雑な社会システムを作り出しているのは、この受肉したロゴスの完成体である人間が再び切断者としてのロゴスへと成長していくためのプロセスとして生きているからである。この一点において、人間は他の動物たちとは目指す方向が全く違うのだ。つまり、人間において宇宙の方向が二つに切り裂かれているということ。
だから、人間は他の動物たちのように自然と調和して生きることは決してできない。自然と調和したいのなら人間自身が差異化するしか道はないだろう。宗教(religion)の語源はre(再び) ligion(結ぶ)だが、人間に宗教があるのもロゴスが常に無限を乗り越えていく無限を内包しているからだ。
進化論のような人間観ではなく、この「結節」としての人間観を取り戻すこと。
9月 1 2017
ロゴスの変質に向けて——理性によって理性を解体するために
物理学は物質の究極にたどり着いた結果、そこに精神、つまり観測者自身の持続(虚的なもの)を見るに至った——まぁ、これがヌース的思考の出発点を意味するのだけど、にもかかわらず、その方向への思考の侵入を頑なに拒んでいるのが時間と空間という延長(伸す=ノス)の力だと思うといい。
精神の本性は持続にあるが、人間においてはこの持続が空間(延長)に従属しているために線的にイメージされてしまう。それがわたしたちが時間と呼んでいるものだと考えるといい。奥行き=精神が横に向いてしまい、ベルクソンの言い方を借りるなら無限に弛緩しているということ。
こうした流れる時間の世界と流れない時間の世界の協働によって、わたしたちは時間の流れを感じているわけだが、こうした構造を目の前の空間上にエーテル知覚として文字どおり描像していくことが高次元認識の土台を作っていく。そして、それが実際、SU(2)(非局所性としての複素2次元空間における回転)の描像であったりするわけだ。
空間を奥行きで構成し始めると、空間が実に多様なカタチで編まれているのが分かってくる。すべては始まりに自己と他者における奥行きと幅という捻れの関係があるからだ(この捩れ関係が本当は自他世界の差異を担保している)。この差異が成長していく空間は「何もないカラッポの空間」という従来型の延長空間のイメージとは大違いで、精神による次元の無限の拡張運動が展開する世界によっている。
物質の内部から見た内部世界のことだ。
本当は、こうした世界を霊的世界と呼ぶのが正しい。
永遠の相のもとに思考する——ということは過去の哲学が何度も訴えてきたことなのだけど、それは常に詩的イメージや抽象的な哲学用語の中でのトライアルだった。従来の時間と空間に変質を与えるまでには至らなかったのだ。
しかし、奥行きの差異化によって出現してくる持続の幾何学の思考は全く性格を異にする。それはダイレクトに時間と空間(人間の意識の形式)を解体させる力を持っているような気がする。理性が理性自身の力によって理性を乗り越える。たぶんロゴスのこうした変質をヌースと呼んでいいのだろうと思う。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), ベルクソン, ロゴス