1月 20 2010
重みの本質
「魂の自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される。」——シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』
重力を供給してくるもの。それはモノである。モノとは一つの重み。そして、われわれはそこに生じる重みに抗うように生きている。大地に立つことも歩行することも話すことも笑うこともセックスすることもすべてが重みへの抗いである。肉体がモノの範疇であるかぎり、僕ら人間の生そのものが重力へのささやかなる抵抗であると言える。
なぜモノが現れるとそこに重みが発するのか。重みがどこからやってくるのかという問いかけはモノがどこからやってきたのかという問いかけに等しい。空気の重み、水の重み、石の重み、そして金属の重み。こうした様々な重みの元はすべて星からやってきたものだ。モノの故郷はすべて星なのである。
星にはどこまでの重みを与えることができるかによって幾つかの種族がある。第一の種族は水素とヘリウムまでの重みを与える種族。第二の種族は酸素までの重みを与える種族。第三の種族はマグネシウムまでの重みを与える種族。第四の種族はケイ素まての重みを与える種族。第五の種族は鉄までの重みを与える種族。その先もあるが人間の魂を語るにおいてはこの第五の種族まででこと足りる。星とはいわば天使の痕跡である。重い星ほど存在の高みに位置する天使だ。人間の世界においてはこうした天使世界の高みは物質世界の重みへと変えられている。つまり、重みとは天使と人間とを隔てている距離なのである。
鉄の塊を持ったとき、身体を覆い尽くすあの重みの感覚。その感覚の中に今のわたしとほんとうのわたしとの距離がある。それはこの地上とあの星々との距離でもあるだろう。この距離は魂の歩行によってしか埋めることはできない。
1月 22 2010
不動の身体
現在、僕の頭を支配しているのは不動の身体感覚をどうやって知性に浮上させてくるかということ。もし身体が全く動いてないとしたら空間はどのように見えるのか。また、モノはどのように見えるのか。そのときの時間感覚はどのように変化するのか。仕事や家庭生活の合間に少しでも時間が空けば頭は即座にその問題についての思考に切り替わる。病気だ(笑)。
最初にすぐに気づくのはモノの運動と身体の運動の根本的な相違だ。身体と世界の関係は運動においては相対的なものとなっている。だから、立ち上がるなり歩くなり宙返りするなり、自分の身体を動かせば必然的に世界全体が動く。この場合、身体を不動のものと見なせば世界全体の方が平行移動するなり、回っていると言える。しかし、モノ一個の運動はどうかと言うと、身体の運動とは相対性を持っていない。モノはあくまでも世界の中の一ローカルな座標として世界に対して相対運動をしているだけだ。
このことからまず予想されるのは、モノと身体とは見てくれは同じ物質でも、その空間的な階層は次元を異にしているということだ。無限数のモノで構成されている世界自体は確かに身体と相対的な関係にあるが、一個のモノはその相対関係が作られている世界空間のその下部次元に位置している。物理学的に言えば、モノ一個の空間は座標にすぎないが身体の空間は座標系となっているということだ。
さて、身体を不動のものと見なしているとあくまでも視覚的な意味においてなのだが、主体極と客体極というものが普段に増して強く意識されてくる。簡単に言えば、不動の身体が持った位置感覚と眼前に敷かれた奥行き上の一点の関係性である。わたしは世界を目撃するのはつねに奥行きにおいてであるし、外界に対する意識の志向性は常にこの奥行き上のベクトルもどきとして働いている。客体極をノエマとするなら、主体極から客体極に放たれるベクトルもどきがノエシスと言っていいだろう。この場合、奥行きの深さは一般に時間と呼ばれているものに対応している。
目の前の鉛筆、たばこ、コーヒーカップ、壁に掛けた額……。わたしが眼差す対象は次々と移り変わっていくが、不動の身体においては世界側がグルグルと回転しているに過ぎない。
今度は立ち上がって部屋の中を歩いてみる。世界が大きく動き出す。部屋の窓が近づいてきて、外の風景が見え出す。対象極には今度は屋外の風景が入り込んできて、近くの弁当屋や遠くのテレビ塔をまるでカメラの焦点合わせのようにまさぐり出す。しかしその方向は依然として眼前であることに変わらない。そこで僕はふと思う。主体極から対象極までの奥行きには時間があるのは分かる。問題はその向こうだ。対象極の向こう側には一体何があるのか。
今度は外に出て真っすぐ歩いてみた。遠くに小さく道路標識が見える。それを対象極にセットして、どんどん接近を試みた。対象への接近は不動の身体から見ると対象極を原点とする三本の直交する線(x,y,z)が次々にスルスルとその対象極を通過してすべっていくかのように見える。いや、三本の座標軸が主体極を折り返し点にしてそれぞれの方向にただ回転しているかのようにも見える。ふと気がつくと、さっきまで小さくしか見えていなかった道路標識が目の前に大きく立ちはだかっていた。
——進入禁止。
どひゃー。こうして、僕は不動の身体感覚を持ってしても対象の背後には絶対に侵入できないということが分かったのだった。
この見えないカベを超える所作が反転の身振りである。おそらく、そこに見えてくるのは自分の後頭部に違いない。もちろん、不動の身体としての。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 10