11月 11 2019
ブレイクアウトの風景・・・POP思想、POP哲学の時代へ
なぜか1980年代の個人史を色々と思い出して、ちょっとしたノスタルジーに(笑)。
1985年の井の頭事件で心がボロボロになって、精神状態がドツボだった時代。このコリーンの笑顔には結構癒された。心をこういう感じで爽やかにさせる曲って今はあまりないね。
今こそブレイクアウトしなきゃ
立ち止まってる場合じゃない
自分の道を歩き出そう
みんな言いたいことを言っていい
頑張ろう!
ってな感じの歌詞。
Swing Out Sister – Breakout
1980年代半ば・・・世の中はバブルで浮かれてたけど、自分的には一番ボトムだった時代。精神がやられてコアな音楽も聴けず、良質のPOPSで自分を勇気づけた時代。
The Style Council – Shout To The Top
TEARS FOR FEARSも聴いたなぁ。Oasis以前にジョンテイストのメロで大ヒットを飛ばしたのってTEARS FOR FEARSぐらいじゃないかね。特に”Sowing The Seeds Of Love” 。出足の”I Am The Walrus"風メロとサビのHello, Goodbye風メロのミックス感がほんとビートルズっぽかった。
とまあ、思い出話はいいとして、
オカルト好き、哲学好き、科学好き、アート好き、中卒、高卒、大卒、博士まで。老若男女―あらゆるタイプの人が同じ目線で意識や宇宙について語り合える共通のプラットフォームを作り上げること。それがヌースが目指す宇宙思想。すべてが新しい概念で張り巡らされた新しい宇宙像。今はウラ取りの段階だからいろいろ知識を持ち込んでるけど、奥行きが目覚めれば、そういうものもいらない。
奥行きとして生きる精神に気づき出すと、幅がどれほど奥行きを抑圧していたのかが分かってくる。神の人間に対する抑圧。道徳の倫理に対する抑圧。男の女に対する抑圧。大人の子供に対する抑圧。社会の個に対する抑圧。暴力的なまでの対称性の破れ―それが人間の条件だと言わんばかりに。
世界の成り立ちは、この垂直の地平が考慮されなければ、永遠に理解には至らないだろう。存在の垂直的な記憶は常に空間の一点に向けてその影を落としてくる。ここに、あそこに、そこかしこに―私たちが物質と呼んでいるものは、そのすべてが存在の追憶の雫のようなものだ。
高度な音楽教育を受けても決して良質なPOPSを作れないように、思想や哲学も知識だけではつまらないものにしかならない。研究と創造は全く違うもの。次世代の思想は音楽のように”民衆”が主役にならないとね。
それが、ほんまのbreak outの風景だと思うよ。
7月 22 2006
人間の条件
ルネ・マグリットの「人間の条件」という作品だ。この絵は画家が絵を描くことの基本的なスタンスを的確に表した概念画のようなものである。マグリットの作品は、以前、紹介した「複製禁止」を初めとして、空間に潜む亀裂、断裂をあたかも測量士のようにきっちりと図式化して再現するものが多い。この作品もその典型である。
室内から見た外部の風景。室内と外部の間にはあたかも風景を切り取るように窓が穿たれている。この窓枠に合わせるようにして、キャンバスが象られ、そこに、外部の風景が詳細に模写される。キャンバス上に描かれた風景はあくまでも2次元上に配置された形態や色彩だが、窓の外に広がる風景は三次元的奥行きを持つ延長としての世界である。
この作品のタイトルにあるように、こうした空間の配置関係が「人間の条件」であることは、ヌースをご存知の皆さんはすぐに了解してくれるだろう。人間はあたかも内部と外部のように感じるなにがしかの空間感覚を持っている。外部は客観世界と呼ばれ、内部は主観世界と呼ばれる。それらはそれぞれこの作品では室外と室内として描かれている空間のことであり、その境界に設けられた窓は目の役割に等しい。画家は視野そのものをタブローとして、この室内と室外の境界面に起きる出来事を作品にするが、それは、ときに感情、ときに思考という反応を通じて、一つの経験の風景としてモチーフ化されていくわけである。
ヌースがまずヌース的思考の大前提として、空間を内面と外面にカテゴライズするのも、この作品が提示している意図と全く同じだ。感情や思考といった主観的な意識の働きは肉体の内部にあるのではない。ましてや、脳の中でもない。この作品で言えば、この窓の形に描かれた「絵画」そのものの上にある。絵画が精神の表現となり得るのは、精神が絵画的であるからにほかならない。ユークリッド空間よりも射影空間の方がより本質的であるように、絵画は決して三次元の風景を平面で表現したものではなく、絵画的なものの方が延長世界へ射影され、三次元認識として開いているのである。その意味で、本当は、絵画的なものの方が高次の生成物である。
まぁ、こんなことは、絵画論の中では言い古されていることだが、この転倒関係をまずはしっかりと認識する必要がある。ヌースではこの作品におけるキャンバス部分を「人間の外面」と呼び、室外風景の方を「人間の内面」と呼ぶが、いずれにしろ、わたしたちは室内から外部を覗くとき、外面に穿たれた窓を通して、それこそ、身体そのものを裏返しにしていると言える。光の皮膚を突き破り、身体の外部へと出血を続ける魂——君も、明日から、自分の部屋の中から外に出るとき、また、反対に外出先から自分の部屋の中へ戻るとき、そこにある空間の捻れに注意を傾けるといい。おそらく、かすかにだろうが、皮膚の裏返る音が聞こえてくるはずだ。
ライプニッツは「モナドには窓はない」と言ったが、それは当然だろう。モナドそのものが窓なのだ。モナドとは二つの対立する世界の継ぎ目、捻れ目に生まれるものなのだ。目の前にその捻れ目が見えてくれば、君もヌースの世界に足を一歩突っ込んだことになる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 08_文化・芸術 • 1 • Tags: マグリット, モナド, ユークリッド, ライプニッツ, 内面と外面