9月 27 2017
SU(2)は愛の種子のようなもの——世界の底辺で愛を叫ぶ
10年以上にわたって考え続けているSU(2)の描像。時間と空間を生み出してくる持続空間の構造と考えられるが、一点だけ不明瞭な点がある。それは、この空間が720度回転して元の位置に戻るというところ。内部と外部を等化する回転だというのは予想がつくが、ドンピシャの描像がまだ出ない。
シュタイナーがいう物質体・エーテル体・アストラル体・自我という一種の次元階層。この大元の空間的骨格もこのSU(2)を起源に持っていると考えられる。空間は四つの次元階層を持ち、四階層目は第一の階層に上位から重なる。つまり、自我は物質体に重なってある。
ヌーソロジーではこの重なりのことを「凝縮化」と呼ぶのだが、これは精神階層が物質化していくときの基本秩序のようなものになっている。
量子力学では、この階層性は時空→波動関数→ヒルベルト空間→アイソスピン空間という構成として表現されていると考えられる。このアイソスピン空間から再び時間と空間が生産される。
精神はこの方向への回転を無限に折り重ねている。ドゥルーズのいう襞化のシステムだ。
なぜSU(2)の描像が重要になるかと言うと、これが見えないと、認識は常に時間と空間の中に閉ざされ、そこに出現してくる物質の多様性をただ、時間と空間の中でしか思考できないからだ。今の科学的理性の思考が持った要素還元主義や機械論的なものの見方がこれに当たる。
垂直方向への次元が見えず、すべてを水平的で一様な延長世界の中で見てしまうということだ。
SU(2)が見えれば、この垂直性の在り方の基礎が高次の知覚として明確化されることになる。たとえば、目の前に、水晶玉と鉄球があったとするなら、この高次知覚はそれらを単なる物質としてではなく、垂直的方向にある持続空間の重なりの違いとして意識化することができてくるということだ。
持続空間の次元はタテに積み重ねられている。そして、その様々な階層が互いに交通空間を作り出し、多様な組織化を行っている。科学はそれを外部から見て、分析を行っているだけだ。
この外からの分析が、物質の操作性や改変性に結びついている。この改変は、生成とは全く別の領域で為されているものだ。人間が人工的に作り出すケミカルが自然物と水と油のような関係になって溶け込めないのも、この認識のズレが原因になっている。人間の認識は世界にとっては異物なのだ。
この異物化の原因はハッキリしている。つまり、人間の世界認識には「愛」がないということ。SU(2)に始まる内部空間からの持続の組織化は常に双対関係で世界を構築していく。生成は倫理的なものなのだ。しかし、人間の世界認識は常に自我の一人称の中で閉じている。その平坦さが異物なのだ。
世界の底辺で愛を叫ぶ………ってか(笑)。
垂直性の次元が見えない限り、それはずっと続く。今までも、今も、これからも。
この愛欠病から早く解放されたいものだ。
そのためにも、SU(2)を思考せよ。
※下図 : SU(2)の数学的構成
10月 2 2017
「ある」と「いる」の世界から、「なる」の世界へ
「ある」とは事物の世界。「いる」とは事物を対象として見ているものの世界。僕らは今、この「ある」と「いる」の世界の中で生きている。
「ある」は「いる」に感覚を与え、一方、「いる」は「ある」を思考する。感じることと考えること。この反復の中で僕らは今まで一生懸命生きてきた。
でも、世界にはもう一つ「なる」という領域がある。「ある」を出現させた大もとの「なる」という世界がある。
この「なる」の世界について、僕らはまだ何も知らない。
今度の『シュタイナー思想とヌーソロジー』は、この「なる」の世界の仕組みについて書いた。素粒子がなる。元素がなる。鉱物がなる。植物がなる。動物がなる。人間がなる。そして、人間の意識がなる。。。
「いる」の世界の次に僕らが向かうのは、この「なる」の世界だと思ってる。ヌーソロジーが標榜している「反転」も、「いる」が「なる」へと変態を起こすことをいう。
僕のパートに関してはまだまだ稚拙で、納得のいく表現はできなかったけれど、物質主義で行き詰まっている今の世の中の宇宙に対する見方を変える一助にはなるのではないかと思ってる——。
高い本ですが、本屋にお立ち寄りの際は是非、ページをめくっていただければと思います。
下写真はツイッター@kihitsuからお借りしました。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌 • 0 • Tags: シュタイナー, シュタイナー思想とヌーソロジー