元止揚(げんしよう)という概念について

今回は「元止揚」という概念について。
 
「止揚」には、もともと「二つの対立する方向の力を統合する」という意味がある。だから「人間の元止揚」という表現には、「人間の意識活動の元となるために対立しあう精神の統合化として生まれてきたもの」といった意味合いが含まれている。
 
人間の意識において、この元止揚は物質として出現しているものすべてに当たると考えていい。つまり、物質世界とは、人間の意識を活動させるために高次の精神の対化が止揚されて生み出されているものだということだ。それが人間の存在の母胎(元)となり、そこから人間の意識活動が開始されていると、とりあえずは考えよう。
  
その意味で、高次の精神の全体側から見るなら、人間の意識活動とは自分たちの活動の最先端に位置するものであり、そのような場所をヌーソロジーでは「総体の内面」の方向と呼んでいる。「内面」とは進化の方向を指す。一方、人間の意識に見える物質世界は高次の精神全体からは「総体の外面」に当たる。
 
これは、総体の外面は、真実の意識(精神の全体性が持つ意識)にとっては自分たちの精神の履歴のようなものに見えていることを意味している。
 
精神進化の最先端は、物質として人間の肉体に集約されているので、総体の外面に見える精神の総体性が他者身体。総体の内面に方向づけられているのが自己身体ということになる。
 
自己身体のみが奥行き(持続)を持つように現象化しているのも、そのような理由によると考えるといい。また、総体の精神は人間の純粋持続の中にその姿を現していると言ってもいい。
 
もちろん、他者サイドにおいては、この関係は逆転している。つまり、総体自体も内面と外面をキアスムとして持っているということだ。
 
さて、ここからは物理学と関連することだが、総体の内面と外面の差異は物質の質量として現われる。つまり、質量とは総体の外面から総体の内面を形作るまでの精神の力が生み出している力に由来しているということだ。一方、エネルギーとは、その力を人間が人間の内面方向に融解させているものと考えていい。人間の内面は総体の外面方向に当たる。つまり、人間の内面の意識は、精神によって作り出された質量を逆方向に反転させる方向を持っていることになる。このとき生まれているのがエネルギーと呼ばれている物だと考えるといい。
 
この関係を、かの有名なアインシュタインのエネルギーと質量の等価式E=mc^2で見るなら、次のようになる。
  
c=i(光速度=虚数単位)と置けば(この置き換えはあくまでも比喩です)、E=mc^2とは、E=-m。その意味で、OCOT情報は、c^2(光速度の二乗)のことを「融解質」とも呼んでいる。この「i × i =-1」は、わたしたちが時間と呼んでいるものの本質と考えていい。つまり、時間とは精神が溶けていってる状態なのだ。その融解物としてエネルギーが発生している。
  
つまり、E=mc^2の本質的な意味とは、スピノザのいう所産的自然と能産的自然の関係が最もシンプルに象徴化されたものだということ。能産的自然が質量を作り、所産的自然がそれをエネルギーとして消費する。
  
質量を生み出すためには付帯質を精神へと変換していくことが必要だ。その意味で、OCOT情報は「質量とは変換の形質」とも言っている。これは、精神の力を構成するものが幾何学的な純粋思考の力であることを意味している。すなわち、それが「カタチ」だ。もちろん、このカタチは時空上の形ではなく持続空間上のカタチのことだ。
  
そして、この「変換の形質」による生成物である持続空間上のカタチに「プラトン立体」というものが深く関わっている。人間の元止揚部分を形質化させたものがヌーソロジーが「ヘキサチューブル」(下図)と呼んでいるものだと考えるといい。これは、総体の外面から内面方向に向けられた「負荷」のカタチであり、このカタチの認識によって総体の内面が開かれていく。

ヘキサチューブル