9月 19 2008
ヌースの貨幣論
掲示板の方で、goemonさんという方から「ヌース理論がお金や経済の意味をどう見ているか」という質問が寄せられた。ヌース理論が貨幣や資本主義について語るのは大分先の話になると思う。というのも、無意識の構造をある程度、幾何学的に説明した上でないと、何を語っているのかチンプンカンプンになってしまう恐れがあるからだ。とはいうものの、この問題は極めて大事な問題なので、goemonさんには、ヌース用語は一切なしで、その概要を簡単にレスしておいた。ここのところ観察子の話ばかりで頭が気持ち悪くなっている人は、気分転換に読んでみて下さい。こちらに転載しておきます。
goemonさん、こんにちは。
貨幣論ですか。。ヌースとしても、とても興味ある問題です。貨幣の位置づけを意識構造の中に見るには、ヌース理論的には次元観察子ψ11~ψ12における構造変動を事細かに分析する必要性があります。観察子で話すと例によってチンプンカンプンになってしまうでしょうから、大ざっぱなイメージで話すとおおよそ次のような感じですかね。ちょっと長くなるかもしれません。
経済は人間の欲望を原動力としていますよね。意識に内在しているこの「欲望」という力は、ヌース的に言えば「等化」の一形態と考えられます。アイツがアレを持っている。だからオレも欲しい。社会でアレは常識になっている。だからオレもアレにならなきゃいけない、etc。しかし、一度等化が起こると、精神は中和というプラマイゼロの状態を作り出し欲望を初期化してきます。あんなに輝いて見えていたものが一度手にしまった途端、一気に色褪せてしまうという経験は誰にでもありますね。しかし、そこでまた「負荷」が起こる。新たな対称性の破れです。欲望は新たな等化すべき対象を対化として見出し、それらを所有し、それらと同一化したい衝動に駆られ、性懲りもない等化の反復を繰り返す。。こうして、モノでもイメージでも、テクストでも、解釈でも、意味でも何でもよいのですが、欲望によって差異が無限に増殖していくことになります。生産です。企業が躍起になって商品の差別化や区別化を叫ぶのも、こうした差異の再生産が収益に大きく寄与するからにほかなりません。経済活動はこうした差異の再生産を前提として成立しているわけです。
現代人にとって、所有とはアイデンティティーの一端を担っている行為でもありますね。モノにせよ、イメージにせよ、言葉にせよ、それが所有されるところには必ずアイデンティティーが生まれる。文化と言い換えてもいい。現代人にとって所有や消費は一種の自己確認の作業であり、主体性を保持するための不可欠な行為となっています。しかし、そこにどんな主体性があるのかというと、差異は飽きたらまた別の差異にすり替えられていくだけですから、結局は主体の場所は空虚な空隙でしかない。所有力で人間の価値が決まるはずもないのに、なぜか多くを所有する者は力をも有しているようかの錯覚に陥る。モノに富める者、言葉に富める者、イメージに富める者、意味に富める者。どれも所有を力としている意味では似たり寄ったりで、それは権力としてしか働かない。そして、こうした一連の所有行為の保証人となっているのが貨幣なわけです。貨幣はモノにも言葉にもイメージにも意味にも容易に化けることができる。トランプで言えばジョーカーですね。つまり、オールマイティ。
となれば、主体が自己確認するために貨幣以上に重要なものはないということになってしまう。その意味で貨幣は現代人にアイデンティティーを付与する霊力そのものと言っていい。つまりコギトの本質力のようなものでしょうか。実際、経済活動において何が交換されようと、それがアイデンティティーを保持、強化するようにしか働かないならば、コギトはその空虚な空隙に居続けるしかなくなる。経済活動を活発化すればするほど人は孤独になっていくわけです。皮肉な言い方をすれば、すべてのコミュニケーションは自我の強化のためにしか働いていないということですね。根底には他者と一つになりたいという欲望が働いているのだけれども、この欲望が結局のところ、所有物の交換という裏返しの情念となって現れ、いつまでたってもグルグルと差異の増殖の中で実りの無い交換活動を続けて行く。。。それが人間の営んでいる経済という生き物の本質のような気がします。
いずれ、ヌースではこうした欲望の機構を幾何学的に事細かに説明していくことになると思いますが、ヌース全体の文脈から言えば、この機構はいつまでもこの実りのない反復運動を続けるようにはできてはいません。やがて本当の経済をもたらす機構に反転します。この転倒した機構が反転さえすれば、人間の欲望は純化し、今度は主体自体の交換という本来の経済活動に変わっていくはずです。今度は人間がモノを交換するのではなく、モノが人間を交換していく回路が開いてくるわけです。ヌース理論の構築はその準備活動です。
8月 9 2013
時間・資本主義・自我
以前、モノ周りの空間を3次元、身体周りの空間を4次元と言いました(ユークリッド空間での表現です)。この場合の身体周りの空間とは奥行きにおいて開かれている空間のことを指します。そして、この奥行きにおいて開かれている空間がモノ周りの空間(幅で構成された空間と考えて結構です)と同じと見なされたとき、奥行きはその違いを時間として現わしてきます。
いずれにしろ、モノに従属して身体が表象されているような空間は、その意味で「身体なき空間」と呼んでいいと思います。こうした空間は虚無の空間です。空間は身体がなければ何ものでもありません。空間を方向付けているのも身体だし、空間を切り開くのも身体、空間上に線を引くのも身体であるということをわたしたちは憶い出す必要があります。
歴史のこの末端にまで来て、世界がこの身体なき4次元時空に覆い尽くされてしまったことにはそれなりの理由があります。それはOCOT情報では「人間の最終構成」と呼ばれているもので、性質という力の最終段階を意味しています。この「人間の最終構成」とは、喩えて言えば成熟した卵の完成のようなもので、4次元時空の中では自らを内部から破裂させるための内破力が蓄積され充満しているのです。この内破力がしきい値に達すると、4次元時空は裂開を開始します。
ここでいう裂開とは決して悪い意味ではありません。植物が一つの種子から双葉をなし、双葉から無数の葉が育ち、茎が幹となり、花が咲き、やがてはたわわな果実を実らせるように、空間自身が自らを実り多きものに変態させていくことを言います。
この裂開の連続的な展開において重要な役割を果たすのが空間に内在させられている双子性です。人間は現在、この空間内部の双子性のことを自己と他者と呼んでいます。4次元時空という宇宙卵の中ではこの双子性の力は卵が持った時間という同一性の圧力の中でうまく分離することができないでいます。いや、正確に言えば、自己が自分のうちに他者を含み、他者が自分のうちに自己を含むという関係が互いに対立し合い、互いの交通関係がうまく開かれていないのです。
この遮断の役割を果たしているのが時間です。時間は暗黙の申し合わせ事項として自己と他者をつねに一つの精神の流れの中に一体化させるのですが、その一体化がモノの空間の中で為されているので、身体の空間側へとうまく接続しなくなっています。このことは資本主義と無関係ではありません。Time is moneyと言われるように、時間は貨幣に換算可能なものです。その意味では、空間にもまして、もっとも巨大な資本と呼んでいいものと言えます。
人間は身体が内在させている夢の資本を、時間的未来に投射することによって、社会や文明を時間の中で貨幣の力を借りて構築していくわけですが、ここには常に身体空間から物質空間への資本のすり替えが起こっていることに気づく必要があります。資本主義はcapitalismと言いますが、このcapitalのcapには「先端」という意味があります。時間が流れることは人間の先端が常に開かれて行く状況を意味しており、この先端はいずれ出会う異性との接触を果たすためのcap(=生殖器)でもあるということなのです。
現在、宇宙の裂開力(これをエロスと呼んでいいとも思いますが)は時間の中に閉じ込められて資本主義の原動力として働いています。そこでは本来、双子によって為されるべき交換の力が時間=貨幣という単一の価値に還元され、単性生殖のような運動を行っています。所有すること、領土化すること、支配すること。これらはすべて単性生殖に内在する欲望です。自我の欲動の回路と言い換えてもいいでしょう。
その意味で、この時間という最終的な自我の形態の中には「女は存在しない」とも言えます。わたしたちが女(=宇宙の受胎力)を取り戻すためには、モノの空間の中に埋もれた身体空間を、身体空間そのものとして浮上させる必要があるのです。
そのとき、かつて自己と他者と呼ばれていたものは、宇宙的女と宇宙的男という男女の双子へと変身を果たすことになると思います。この双子の間において交わされてく交換力が、卵の裂開力となって万物を生成へと導くのだと思っています。そこがシリウスです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ユークリッド, 人間の最終構成, 貨幣, 資本主義