12月 28 2018
「次元の交替化」って何よ?
OCOT情報で一番衝撃を受けたのは「次元の交替化」という概念だった。
OCOTの言う「次元」とは普通僕らが使う3次元や4次元といった次元概念とは全く違う。哲学がいう「超越論的なもの」の場所のことだ。表には所与としての人間の経験的な意識あり、その裏にこの所与を与えるところの「次元」がある。
そして、面白いのは、この「次元」もまた対化としてあるということ。超越論的なものが二つある・・・?
そんな話は既存のどんな哲学にも出てこない。つまり、OCOTの宇宙論理は徹底して例の「キアスム(交差配列)」で貫かれていて、経験的なものと超越論的なものの関係もまた例外ではないということだ。
そして、OCOT情報はこの存在論的とも言えるキアスム構造の中に、人間が自己と他者と呼んでいるものの関係の本質があると言う。要するに、自他間においては、本当は経験的な意識と超越論的な意識の関係が真逆になっていると言うのだ。へっ・・・? それこそレヴィナスも真っ青になる他者論ではないか(笑)。
そして、太古の時代にはこのキアスムを自明なものとしてメタ知覚していた意識が存在したのだと言う。それがOCOTのいう「ヒト」という存在だ。そして、ヒトはこの二組の陰陽(次元の対化)の対称性を作り出すための準備段階として、互いが互いに関与する期間を設ける。それが「調整期」と呼ばれる。
人間の意識活動は、その調整期なるものにおいて出現している次元の状態であり、調整が終了すれば、そこから、ヒトは、人間の自他それぞれの意識において経験的なものと超越論的なものとして働いていた場所を丸ごと入れ替えていく作業に入る―簡単に言えば、自他の意識の場所を取っ替えるということ。これが「次元の交替化」のあらましだ。
いきなり、こんな話を聞かされた日には、ハンマーで頭を殴られた感じ、どころか、首がちぎれる(笑)。
まぁ、如是我聞タイプの話なので適当に聞き流してもらってOKだが、とにかく、この「次元の交替化」というビジョン、古代宗教や神秘学、哲学や物理学の中にいろいろとその痕跡を探してきたのだが、単なるトンデモで片付けるには実に惜しい。ハイデガーの言うように、存在は隠れたり、現れ出たりして、営々と流転しているように感じる。
ヌーソロジーが展開している幅(他者)と奥行き(自己)の空間論は、そうした流転する「次元」の風景の地平を何とか自分の意識に顕在化させたいがために建築しているようなものだ。
この建築は再生に近いものだが、「夜の時代にあってすでに立ち去り、いまだ還らない神々を回想する」ための思索の作業とも言えるだろう。
1月 7 2019
年始のごあいさつに代えて——真実のコペルニクス的転回を!!
新年明けましておめでとうございます。
今年も「奥行き」の開花のためにヌーソロジーは驀進します。
なにとぞ宜しくお願いいたします。
ということで・・・少しだけ、ヌーソロジーによる正月談義を。
正月になるとみんな「おめでとう」と口癖のように言う。しかし、一体何がおめでたいのか。日本人の九割がたはたぶんその理由を知らない。なかには「それは歳神という来訪神が訪れるからさ。歳神の大ボスは大国主とも言われていてね・・・」と得意げに正月に関するウンチクをたれる人がいるかもしれない。
でも、そういう人でも、「じゃあ、その来訪神って何よ?」と聞かれたら、たぶんだまりこんでしまう。結局、古代の知識とは言うものの、大方は言葉だけで、その実質についてはほとんどが忘れ去られている。
そこで、OCOTだったらこの「歳神」に関してどういうコメントを出すだろうか。ちょっと想像してみよう(笑)。
「歳神」とは、地球における月と太陽の等化の位置です。この位置が地球に顕在化することによって、人間の意識は付帯質の外面から付帯質の内面へと反転を起こします。「歳神」は、今はまだ調整の段階で現れるだけで、顕在化は起こっていません。顕在化を起こすものをは「大歳神」と呼ばれます・・・みたいな(笑)
さて、解説しておこう。
意外に思われるかもしれないが、OCOTのいう「歳神」はマヤ暦とリンクしている。マヤンカレンダーで有名なホセ・アグエイアスが紹介している暦に「13の月の暦」というのがある。この暦は28日 × 13 ヶ月 + 1日 = 365日で構成されているのだけど、 アグエイアスはこの余りの「一日」を「時間を外した日」と呼んで、神聖な日として解釈している。時間が外れるわけだから、その一日だけ「永遠の今」が訪れるってことなんだろう。そして、この「永遠の今」を体験させてくれる時(とき)の神こそが、到来しては人知らぬ間に過ぎ去っていく来訪神でもあるわけだ。調整の段階に反復してやってくる月と太陽を等化する精神の働き・・・。
OCOTなら、たぶん、この「時間を外した日」の意義を「歳神」と呼ぶんじゃないかと思う。この「一日」において一年(地球の公転)と一日(地球の自転)が等化され、月→地球→太陽という意識の通路が一瞬だけ開く。要はちょっとだけ太陽神ミトラが顔を覗かせるってことだ。
では、一年と一日の等化って何だ? って話になるんだけど、これは西洋オカルティズムで言う「太陽と月の聖なる結婚(ヒエロス・ガモス)」のことだね。太陽は精神の象徴。月は物質の象徴。それらがめでたく結婚するわけだから、これは精神と物質の一致、もしくは統合。そういう意味合いになる。
続けて、OCOTの立ち位置で話すとこんな感じになる。
地球は精神。月は付帯質。太陽とは精神の等化。付帯質の本質が精神の等化に当たります。ですから、月が何かを知るためには太陽が何かを知る必要があります。太陽を知ることによって月が何かが分かるのです。これは精神の等化が物質を作りだしていることと同じ意味です。
実は、こうした地球、月、太陽をめぐる存在の秘密は僕らの意識空間にダイレクトに反映されている。それを具体的に覚醒させようとしているのがヌーソロジーだと考えてほしい。
身体の周囲には物質が散在してる。これを地球を中心とした月の位相の関係に対応させてみよう。
今の人間は地球の位置からさえも脱中心化し、月の位相に自分がいると思っている。これが物質主義だ。グルジェフが言ったように「人間は月に食べられている」わけだ。人間が賢くなれば月に食べられるのを嫌がるはずなのだが、月の支配から出ようとする気配は一向にない。
月の本質は太陽なのだから、この月に太陽の重なりを見よう、と言ってるのがヌーソロジーだと考えるといい。自分の周囲にある物質には、実は精神としての太陽が降り立っている。ただし、月に重なり合っているこの太陽を感じ取るためには意識の反転が必要になる。
月の位相は地球の自転に合わせて出現してくるわけだから、その地球の自転がそのまま公転になるような空間を作り出せば、その中心に太陽が現れてくることになる。これがいつも言ってる「観点の球面化」によって怒ってくる意識の「反転」だね(下図参照)。
そのとき、僕たちは、月(物質)だったところに太陽(精神)が現れるのを見る。別の言い方をするなら、局所的一点に非局所が重なり合ったのが見えてくるってこと。
その意味で、月→地球→太陽という方向性は、そのまま意識の進化のあるべき方向性を表現していると考えるといい。精神に基盤を持った意識にとっては、物質は過去であり、未来は物質を創造していく精神に見えるってこと。そして、その未来に意識を方向付けしているのが太陽なんだね。占星術でも言われるように、まさに月は「既在」としての過去を、太陽は「将来」としての未来を示しているわけだ。
まっ、そんなわけで、ヌーソロジーは世界を一年中、正月にしてやろうと企んでます。
毎日があけましておめでとう。
そんなハッピーな世界の到来を祈って、今年も頑張るよ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報